レポート | ・ヴェネツィア共和国の政治 |
− ヴェネツィア共和国の政治 −
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一般に『真実の口』といえば、いつわりの心のある者が手を入れると、手首を噛み切られたり、手が抜けなくなったりするというローマにある石の彫刻のことです。映画『ローマの休日』に登場して有名になりました。 イタリアのヴェネツィアにも『真実の口』があります。こちらは手首を噛み切られるものではなく、ヴェネツィア共和国時代に市民からの密告書を受け付ける投函口だったもので、いわゆる『密告の口』です。共和国時代の元首(総督、ドージェ)の住居兼最高司法府だったドゥカーレ宮殿のほか、ヴェネツィアの街中でも見かけることができます。 ヴェネツィア共和国は、7世紀末期からナポレオンに降伏する1797年までの1000年以上にわたり、歴史上最も長く続いた共和国で、『最も高貴な国』あるいは『アドリア海の女王』などと呼ばれ、塩野七生さんの『海の都の物語 ― ヴェネツィア共和国の一千年』などの著作が知られています。 東地中海貿易によって栄えた海洋国家であったばかりでなく、一切の独裁政治を許さず、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰されるほどだったそうです。 イタリア半島にあるライバル諸国との対立や他国からの侵入・侵略に絶えず脅かされながらも、共和制から君主政へ移行したり、外国の支配下に置かれたりすることもなく、共和国国会で選出される元首を中心とする共和制を守り抜きました。 自然資源も人的資源も持たざる国が、海洋貿易国家としての確固たる地歩を固め、『アドリア海の女王』としてその覇権を長く保持できたのは、ひとえにその卓越した政治・外交・軍事の力によったといわれます。 初期のヴェネツィア共和国では元首が独裁的な権限を持っていましたが、後に就任の際に宣誓を求められるようになり、権力は大評議会と共有されるようになりました。大評議会の定足数は 480で、元首も大評議会も互いに相手を無視して決定を行うことはできませんでした。 *** 例えば、第55代元首、マリーノ・ファリエロの例があります。1354年に元首になったマリーノは、翌年に自身が世襲君主となるべくクーデターを起こしました。しかし、クーデターは失敗、マリーノは処刑されます。死後に四肢を切り刻まれ、他に10人の協力者が処刑された後、ドゥカーレ宮殿の外に吊されたといわれます。 そして、記録抹殺刑に処せられました。ドゥカーレ宮殿の『大評議会の間』に、初代から76代までの元首の肖像が飾られている一角がありますが、一か所だけ、肖像画の代わりに黒いバナーが描かれているところがあります。そこがマリーノ・ファリエロの場所でした。 *** その後、十人委員会(十人評議会とも訳される)が設立されると、やがてその影響力は大評議会を凌ぐようになり、政府の中枢機関として1797年まで存続しました。十人委員会の公式な任務は当初、共和国の治安維持、政府転覆および汚職の防止でした。 しかし、組織が小さく迅速な決定が可能であったため、政府の業務全般を取り扱うようになり、十人委員会は共和国の外交と諜報活動を監督し、軍を管理し、そして奢侈禁止令(贅沢を禁止して倹約を推奨・強制するための法令)を始めとする様々な法律の執行を司ったりするようになりました。 1454年に3人の調査官からなる情報機関が設立され、諜報、防諜、および国内監視のための情報網が充実しました。非合法な政体変革の企てなどを阻止することが目的で、調査官の一人は赤い外套を着用することからイル・ロッソ(赤い男)と呼ばれ、元首の顧問により任命されました。 もう一人はイ・ネグリ(黒い男)と呼ばれる黒い外套の人物であり、十人委員会に任命されましたが、この情報機関は、徐々に十人委員会の影響下に置かれるようになりました。 治安機関である十人委員会への密告書を受け付ける投函口だった『真実の口』は、脱税者などを密告するためにも使われたという、いわば目安箱、かつてのヴェネツィア共和国時代の政治体制の一端を物語っているわけです。
(1)ヴェネツィア共和国 - Wikipedia (2)マリーノ・ファリエロ - Wikipedia (3)研究スタッフが選ぶ、オススメ図書(神戸大学大学院 MBAプログラム) 塩野七生『海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年―(1〜6) |
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2014.08.26 | ||||
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