レポート  ・丹宗庄右衛門と八丈島の芋焼酎   
− 丹宗庄右衛門と八丈島の芋焼酎 −
伊豆諸島の八丈島(東京都八丈町)は、1606年(慶長11年)から明治に至るまでの間に 1,900人に近い流罪人が流された島として知られています。八丈島への流罪人1号は、備前岡山 57万4,000石の大名で、豊臣政権の五大老をつとめた宇喜多秀家でした。関ヶ原の戦いで敗れ、2年3ヶ月間にわたって薩摩に潜居ののちに流配され、50年近くを八丈島で暮らし83年の生涯を全うしました。
 
薩摩に関わりのある八丈島流罪人にもう一人、丹宗庄右衛門(たんそうしょうえもん、1812〜1875年)という、薩摩国阿久根出身(現鹿児島県阿久根市)の薩摩藩御用の回漕問屋がいたのです。
 
天保9年(1838年)、薩摩藩家老に出世した調所広郷(ずしょひろさと)は藩財政改革に着手し、 500万両の巨額に達していた借金(当時の藩の年収は10数万両でした)を、3年後には藩の金蔵に 250万両の蓄えが出来る程にまでに財政を回復させました。その財政改革の手段として調所が使ったのが、大島・徳之島などから取れる砂糖の専売制と琉球を通じて行う清との密貿易でした。
 
藩御用達として密貿易の一翼を担っていた庄右衛門は、幕末の嘉永6年(1853年)に江戸の問屋に密貿易を密告されて捕まると、罪を一身に背負い15年の刑で八丈島に流されます。
 
当時八丈島では、貴重な米で酒を造ることはできず、稗(ひえ)などの雑穀を使ったドブロクを飲んでいました。八丈島でさつま芋が栽培されているのを見た庄右衛門は、薩摩ではさつま芋で酒を造っていると言って、故郷より蒸留器を取り寄せ、島民に焼酎造りを教えます。ここに、八丈島での芋焼酎造りが始まりました。
 
15世紀頃、シャム、ジャワ、タイ等で盛んに造られていた蒸留酒の製造技術が琉球に渡り、さらに薩摩から日本各地へと伝わっていきます。そして、その先々で、芋、麦、黒糖、米などその地の特産物をベースにした焼酎が生み出されました。沖縄の泡盛、奄美の黒糖焼酎、大分、壱岐の麦焼酎、球磨焼酎は米、そして芋焼酎は鹿児島と宮崎南部地方に加えて、八丈島が産地とされます。
 
人口約 9,000人の八丈島に5つの焼酎蔵元があって、焼酎造りが続けられていますが、現在は、芋だけでなく、麦、芋麦ブレンドの焼酎が造られています。以前は、島内の農家がさつま芋を作り、蔵がそのさつま芋を買って焼酎を造り、出来上がった焼酎を農家が買うという具合で芋焼酎が造られていましたが、昭和初期頃から、観葉植物を栽培する農家が増え始め、原料の芋が確保しにくくなったそうです。
 
そこで、島の各蔵元は麦焼酎の導入を検討し始め、芋麦ブレンド焼酎を造り始めました。そして、今日の、麦焼酎、芋麦ブレンド焼酎、芋焼酎の3種類がある独自の焼酎文化を持つに至ったそうです。
 
芋焼酎造りを島民に教えた丹宗庄右衛門は、島内で『さつまじい』として尊敬されたと言われます。明治元年に赦免されて故郷に帰り、明治8年(1875年)阿久根で亡くなりました。現在鹿児島では、鹿児島県曽於市にある木場酒造(有)で、斬首あらいの焼酎『丹宗(たんそう)』という、丹宗庄右衛門に由来する銘柄名の芋焼酎が造られています。
 
【参考にしたサイト】
[1]丹宗庄右衛門とは : Weblio 辞書
[2]東京七島酒造組合 -八丈島・八丈島酒造合名会社
[3]八丈興発株式会社ホームページ
 

2009.01.21
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