レポート  ・田の神と無礼講   
− 田の神と無礼講 −
鹿児島県内の田んぼのあぜみちを歩くと、『田の神さあ(タノカンサア)』とよばれる石像をよく見かけます。田の神は、その名の示す通り田んぼを守り、米作りの豊作をもたらす農業神です。稲作のある日本全国の各地で信仰され伝承されていますが、それが石像として田んぼのあぜなどにあるのは、鹿児島を中心とした旧薩摩藩領(鹿児島県本土および宮崎県南部)に限られます。現在、約2000体の田の神が確認されているといわれます。
 
関ヶ原の戦いの後、諸大名はそれまで土地と結びついていた中世武士団や土豪たちを城下に集めて中央集権体制を整えていきました。しかし、薩摩藩は違いました。本拠地の鶴丸城(鹿児島城)を囲むように藩内の各地に武士団を定住させ、平素は農業に従事させながら、有事の際には武士として軍事力を発揮させる、いわゆる『外城制度(とじょうせいど)』という独自のシステムをつくりあげました。
 
そのため、藩は多くの武士を抱えることができ、他藩では全人口に対する武士階層の割合が平均5%だったのに対して、薩摩藩では5倍の25%に達していたといわれます[1]。 そうした地方の武士団は、本城の鶴丸城下に住む『城下士』と区別して『郷士』と呼ばれました。
 
郷士たちが定住してその地域の統治を行った集落を『麓(ふもと)』といい、藩内に113ヶ所ほどの麓があったといわれます。現在でもその面影を残す町並みを県内のあちこちで見かけることができます。郷士は城下士に比べて蔑視されていましたが、官僚的性格をもった軟弱な武士たちではなかったのです。関ヶ原の戦いにおいて西軍として参加した島津氏でしたが、家康が薩摩藩に手を出せなかったのはそのためだといわれています。
 
さて、このように武士の人口比率が高く、武士による民の支配が徹底していた薩摩藩において、江戸中期の宝永2年(1705年)に初めて田の神像が建てられ、それから藩内に広まっていきました。
 
田の神像を建てる風習が、薩摩藩の食糧増産政策の一環として始まったものなのか、あるいは五穀豊穣を願って農民たちの側から自然発生的に起こったものなのか明確ではありませんが、『宮崎の田の神像』の著者である青木幹雄氏は、田の神が急速に広まった理由の一つに、”無礼講としての田の神祭り”をあげています[2]
 
窮迫した藩の財政を立て直すため、農民は急速な新田開発と増産が課せられたばかりか、日常生活では極度の倹約が強いられました。そんななかで、秋の収穫を祝う祭りである『田の神祭り』は、いつしか無礼講となっていったに違いないというのです。
 
農民(田の神舞)型の田の神像として、例えば、鹿児島県加治木町の『日木山里の田の神』があります。頭に甑(こしき)のシキ(わら製の編み物)をかぶり、右手にメシゲを持ち、左手はシキを押さえています。ユーモラスな笑顔の目、鼻、口がとても表情豊かに刻まれています。袖(そで)を、襷(たすき)で短くたくし上げ、今にも踊り出しそうな所作(しょさ)は、田の神舞(タノカンメ)のひとこまでしょう。
 
・『日木山里の田の神』を見る
→ http://washimo-web.jp/Trip/Tanokami/Tanokami-1.htm
 
この田の神は、1984(昭和59)年に東京で開催された『ほほえみの石仏展』の会場正面に飾られ、全国から集った石仏の中でも、ひときわ目立っていたそうです。名島喜六という石工の天保年間(1830〜1843年)の作といわれますが、何とも楽しそうな田の神舞の姿は、無礼講で踊り騒ぐ農民たちの姿そのものに違いないと思われます。
 
日頃は極度の倹約を強いられていた農民たちも、この日ばかりはと、煮しめ(煮付け料理)や赤飯、餅などを存分に食べ、焼酎を飲んで踊り騒ぐことができました。酔った勢いで、日頃は頭が上がらない武士の役人に皮肉や悪口をいって憂さを晴らしたりもしたでしょう。田の神祭りは、農民の鬱積した気持ちのガス抜きの場になり、武士と農民とをつなぐバッファ(緩衝装置)の役割を果たしたに違いありません。そう思いたくなるほど、農民型の田の神さあの表情はどれもこれも、にこやかで楽しげなのです。
 
一方、頭に甑のシキをかぶった農民型の田の神像の後姿は多くが亀頭状で陽石(男性のシンボルをかたどった石)の形をしています。確かに陽石は、生産、増産、豊作を祈る象徴だといわれますが、人々は、田の神さあの後姿として陽石の形を造形することによって、人間の心底に根源としてある性への憧憬を、だれにはばかることなく表現したに違いありません。これもまた、田の神を通した無礼講といえば無礼講といえるのではないでしょうか。
 
そんなことを考えながら、南九州の農村部に暮らす私たちは、ニ百年〜三百年もの間、田んぼや農家の日常を見守り続けながら鎮座してきた田の神さあと朝夕接しているのです。
 
【参考にしたサイト】
[1]サムライワールド薩摩紀行『島津氏−外城制度』
[2]宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ『特集:田の神さあをめぐる〜田の神の歴史』
  

2009.09.09  
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