レポート  ・日本統治と台湾のインフラ   
− 日本統治と台湾のインフラ −
今回(2010年6月)の台湾旅行で現地のツアーコンダクターをしてくれたCさんは、日本で生活した経験を持つ50歳前後の女性でした。華僑だった男性と結婚して千葉で生活を始めましたが、まもなく主人が亡くなり、幼い娘を連れて台湾に帰郷、独学で一級の通訳資格を取得したという苦労人でした。
 
Cさんは、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造、明石元二郎など日本人の名前をあげながら『台湾のインフラ(社会基盤)と教育は日本統治時代の賜物です』としきりに説明します。台湾の日本統治時代とは、日清戦争の敗戦に伴い清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)に中華民国統治下に置かれるまでの約50年間を言います。
 
日本の接収に抵抗した台湾独立運動やその後の抗日運動において、たくさんの台湾人あるいは台湾住民の犠牲者が出ていますし、植民地政策はあくまで、植民地利権による日本の国力増強ために推し進められたものでしたが、結果として、日本統治時代のインフラ整備と教育が戦後の台湾の経済発展に寄与することになりました。
 
1898年(明治31年)に、児玉源太郎が第4代台湾総督に就任すると、内務省の官僚だった後藤新平が民政長官に抜擢されます。後藤は、日本国内の法制をそのまま文化・風俗・慣習の異なる台湾に持ち込むことは、生物学の観点から困難であると考え、台湾の社会風俗などの調査を行ったうえで政策を立案し、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採りました。
 
後藤は、鉄道・道路・港湾・電信・建築物といった社会インフラの整備と拡張に力を入れ、大胆で急進的な台湾の近代化政策を実行していきました。また、台湾財政確立のためには産業振興が必要と考え、郷里・岩手県の後輩であった新渡戸稲造を招集します。新渡戸が有名な著作『武士道』を刊行した翌年のことでした。
 
1901年(明治34年)、民政部殖産局長に就任した新渡戸は、ハワイからさとうきびを導入し、幾多の品種改良を行うとともに搾糖機械の技術改良を進め、台湾における製糖業の近代化を推し進めました。それまで零細業種の域を脱していなかった台湾の糖業は、近代的な製糖産業へと脱皮し大規模な製糖会社が次々と設立されていきます。製糖産業の確立で経済基盤が安定し、社会インフラの整備・拡張がなされていきました。
 
1918年(大正7年)に、第7代台湾総督に就任した明石元二郎は、台湾電力を設立し水力発電事業を推進、現在も台湾最大の銀行である華南銀行を設立しました。また、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正しました。
 
明石は、急死するまで一年余の総督でしたが、その後、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専門学校など、台湾人向けの教育機関として多くの学校が開校されていきます。そして、日本人と台湾人の共学が可能となり、台湾人にも帝国大学への道が開かれて行きました。1928年(昭和3年)には台北帝国大学が設立されています。
 
明石は、1919年7月、公務のため本土へ渡航中の洋上で病となり郷里福岡で死去しましたが、『もし自分の身の上に万一のことがあったら必ず台湾に葬るように』との遺言によって、遺骸はわざわざ郷里の福岡から台湾に移され、現在、台北県三芝郷の福音山基督教墓地に埋葬されているそうです(参考:ウィキペディア)。

 

2010.07.21  
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