レポート  ・日本超古代史とシュメール人   
− 日本超古代史とシュメール人 −
2003年、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとして、アメリカ主導の下に 始まったイラク戦争から3年を経た現在、イラクで初めての民主選挙による政権が発 足したものの、治安悪化が続く中で依然として米軍の駐留が続いています。
 
そのイラク内を北西から南東に流れてペルシャ湾に注ぎ出る2つの川、チグリス川と ユーフラテス川にはさまれた地方は、ギリシア語で『メソポタミア』(川の間の地方) と呼ばれ、人類最初の文明が発祥したところです。
 
メソポタミア地方の元来の住人はセム系のアッカド人で、北部メソポタミアに遊牧文 化を築いていましたが、偉大なメソポタミア文明を担ったのは彼らではなく、南メソ ポタミアに突如(とつじょ)として現れたシュメール人という謎の種族でした。
 
紀元前2500年〜2350年には、ウル第一王朝を築き、文字(楔形文字)・文学・法制・ 教育・医学・天文学・建築技術・造船技術・集約農業・商工業・貿易など、ありとあ らゆる分野の文明を所有していたといわれます。穀物栽培が発達していて、その頃に は、シュメール人はすでに多くの種類のビールを作って飲んでいたそうです。
 
しかし、アムル人の侵入によって、ウル第三王朝(紀元前2060〜1950年)を最後に、 シュメール人は歴史の舞台から忽然(こつぜん)と姿を消していったのです。メソポ タミアから姿を消したシュメール人は、一体どこにいったのでしょうか?
 
東南アジア、東アジア、ポルネシアン、アメリカンインディアンへ? そして、日本 にもやってきたというのです。シュメール人は日本人の祖先であるという説が戦前か らあったそうです。
 
例えば、岩田明著『十六菊花紋の謎〜日本民族の源流を探る』(潮文社)によると、 シュメール人と日本人には、次のような類似点があるそうです。
 
(1)目が大きく鼻も大きく、身長は高からず、つぶらな瞳で、髪の色は黒いという シュメール人の人種的特徴は日本人に似ている。  
(2)日本語とシュメール語は、統語論的に似ているだけでなく、意味論的にも共通 するところがある。
 
(3)日本の皇室の紋章・十六菊花紋の原型は菊の花弁ではなく、船乗りが使ってい た羅針儀または日時計を平面に図案化したものではないかと考えられる。
 
(4)日本列島で発見されたペトログラフ(岩刻文字)のほとんどがシュメール文字 として解読できる。
 
また、松重楊江著『日本史のタブーに挑んだ男』(たま出版)は、鹿島昇(1926年〜 2001年)の史観を次のように紹介しています。
 
『シュメール人が日本にやってきて打ち建てたのが、東表国(とうびょうこく)で、 それこそ神武以前の先王朝であり、東表国の列島支配は、1,000 年以上も続いたとい うのである。』『3世紀初頭、中国東北(満州)から朝鮮半島を経て南下した扶余 (ふよ)族のタケミカヅチ(神武)率いる北倭人(わじん)が東表国の南倭人と戦っ た末に、博多近辺に伊都国(いとこく)を建てた。』
 
              ***
 
熊本県阿蘇郡南小国町といえば、全国的に知られた『黒川温泉』のある町です。この 9月、連れ合いと一泊二日の温泉旅行に出かけようということになり、サイトで宿探 しをしていて、南小国町でシュメール文字のペトログラフらしきものが見れるということを知っ たのです。そこで、黒川温泉の隣り地区にある七滝温泉に宿をとり、『押戸石(おしどいし)の丘』に登ってみました。
 
離合もままならない狭い道を心細い思いをしながらやっとのことでたどり着いた阿蘇 北外輪山の小高い草原の丘に登ると、 360°の広大なパノラマが広がります。丘の頂 上には、大小数百個の石が人為的とも思われる配列で置かれていて、ピラミッド型を した高さ 5.3 m、周囲 15.3mの巨岩には、約 4,000年前のシュメール文字のペトロ グラフらしきものが刻まれていました。
 
メソポタミアの地に人類最初の文明を築いたシュメール人が日本人の祖先であるかも 知れない、何ともロマンに満ちた話ではないでしょうか。
 
※ 下記アドレスに旅行記があります。
■旅行記 ・押戸石の丘 − 熊本県阿蘇郡南小国町
 → http://washimo-web.jp/Trip/Oshido/oshido.htm
 
【参考にしたサイト】
日本人の先祖はシュメール人か
書籍紹介/岩田明著『十六菊花紋の謎』
  

  2006.11.22 
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