レポート  ・歴史のつながり 〜 札幌桑園と旧庄内藩士   
− 歴史のつながり 〜 札幌桑園と旧庄内藩士 −
歴史のつながり、それは人のつながり、人の心のつながり、ということになるでしょう。明治維新直後に刀を鍬にかえて桑園の大開墾に挑んだ 3,000人の旧庄内藩士たちの志と魂が、北海道開拓にも活かされていたことを知ったのでした。
 
       (1)南洲翁遺訓と松ヶ岡開墾場
 
江戸薩摩藩邸を焼き討ちし、戊辰戦争において新政府軍に執拗に抵抗した庄内藩(今でいう山形県鶴岡市、酒田市)でしたが、戦後処理に見せた西郷隆盛の温情ゆえに、旧藩士らは、西郷に敬服し、後年、西郷から学んだ様々な教えを「南洲翁遺訓」という一冊の本にまとめて出版し、全国に配り歩き、その伝導者となりました。
 
その西郷は、西南戦争で鹿児島の城山に倒れます。明治7年(1874年)になると、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、山口萩の乱と、不平士族の反乱が相次ぎました。そして、最大規模の士族反乱となったのが明治10年(1877年)の西南戦争でした。旧庄内藩の取り組みは、こうした不平士族の反乱とは対照的なものでした。
 
明治4年(1870年)の廃藩置県の折、旧藩中老・菅実秀は旧庄内藩士の先行きを考え、養蚕によって日本の近代化を進め、庄内の再建を行うべく開墾事業に着手、明治5年、旧庄内藩士 3,000人が荒野を開墾開拓し、明治7年には 311ヘクタールに及ぶ桑園を完成させました。
 
その「松ヶ岡開墾場」は、現在、国指定史跡となっており、開墾記念日には、旧庄内藩主・酒井忠篤と松ヶ岡開墾の志を支えた西郷隆盛、開墾開拓に取り組んだ重臣の菅実秀の肖像額を飾り、床の間には西郷より頂いた「氣節凌霜天地知」の箴言の掛字を掲げて式典が催されるそうです。
 
       (2)開拓使と屯田兵
 
明治2年(1869年)、北方開拓のための官庁として開拓使が置かれましたが、樺太に兵士と移民を送り込むロシアの南下政策に強い危機感を抱いた政府は、明治3年に樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓使次官にして樺太専務を命じました。
 
ロシアに対抗し得る国力を充実させるためには、北海道の開拓に力を入れるべきだという黒田の建議に従い、明治4年(1871年)に10年間 1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる『開拓使十年計画』が決定されます。
 
一方、西郷隆盛は、明治4年に部下の桐野利明(西南戦争で西郷と共に城山で戦死)に札幌周辺を調査させ、北海道に屯田兵を配備して対ロシア防衛と開拓に当たらせる屯田兵構想を打ち上げ、黒田清隆らに建策しました。
 
西郷は、廃藩置県による士族らの失業を心配し、彼らを北海道の開拓と防衛に当たらせようと考えたのでした。そして、西郷の屯田兵構想は、鹿児島の外城(とじょう)制度に範を得たものでした。
 
鹿児島・薩摩藩は城を築かず、領内を百十三の外城に分け、そこに外城士を住まわせて侵略に備えました。外城士は「郷士」と呼ばれる半農半士で、日常は農作業にいそしみ、いざの場合は武器を持って城に駆けつけます。まさに屯田兵でした。屯田兵は明治7年(1874年)に制度が設けられ、翌年から実施されました。
 
       (3)札幌桑園の始まり
 
2012年7月下旬、著者は、屯田兵の史跡を札幌市内の琴似と新琴似に訪ねました。琴似から新琴似に行くには、JR桑園(そうえん)駅で電車を乗り換えなくてはなりません。ホームで電車を待ちながら、この辺りが開拓使の桑園があったところに違いないと思ってみます。
 
翌日、開拓使ビール(現サッポロビールの前身)の生みの親・村橋久成(札幌製糸所の建設も手がけた)の胸像が建てられている北海道知事公館を訪ねました。そのとき、知事公館のある辺りがかつて桑園があった場所で、札幌の桑園地区は、旧庄内藩士が桑畑を開墾したのが始まりだったことを知ったのでした。
 
明治8年(1875年)開拓使は、屯田兵に養蚕を勧めるための計画の一つとして、現在の札幌市北1条より北10条、西11丁目から西20丁目の地域を全部桑畑にすることに決めました。開拓使長官となった黒田清隆は、松本十郎大判官と相談して、旧庄内藩士たちを招いて、開墾してもらうことにしました。
 
札幌に招聘(しょうへい)された旧庄内藩士 156名によって21万坪が開墾され、桑の苗を植える穴が掘られました。旧庄内藩士が帰郷後、開拓使は酒田から桑の苗を買い穴に植え、その後福島や群馬からも苗を買って植えましたが、冬の寒さで枯れてしまいます。そこで、北海道の山に生えていた山桑に植え替え、桑畑はやがて48万坪に拡げられて行きました。
 
       (4)松本十郎
 
旧庄内藩士を札幌に招聘した松本十郎と黒田清隆との係り合いがまた興味深いです。鶴ヶ岡城城下で近習頭取の嫡男として生まれた松本十郎(当時、戸田総十郎)は、戊辰戦争で藩の使者役を務めたり各地で新政府軍と戦いますが敗北、藩主酒井忠篤は幽閉されてしまいます。
 
これに憤慨した松本は、藩主と庄内藩に対する恩赦を嘆願し、これが叶わなければ庄内攻撃の責任者であった黒田清隆と相討ちの覚悟で京都に赴きます。しかし、黒田が西郷隆盛とともに庄内藩の恩赦に奔走していたことを知ると、松本は黒田にその非を詫び、黒田も松本の人物を認めて開拓使入りを勧めました。
 
明治2年(1869年)、開拓使入りした松本は、根室国に派遣されて現地の開拓責任者である開拓判官に任じられ、明治6年(1873年)には当時次官だった黒田に次ぐ開拓使序列第3位の地位(大判官)につきました。アイヌに理解を示し、アイヌから敬意を払われましたが、樺太のアイヌを北海道に強制移住させて内陸部の農業開拓に利用しようとする黒田清隆と対立し、明治9年(1876年)辞表を提出しました。
 
故郷の鶴岡に帰郷した後は、一介の農民として生涯を送りました。官にあった時も農民だった時も時に酒を親しむ以外は質素な生活に甘んじ、開拓使大判官時代でさえも家に書生を1人置いただけであったといわれます。
 
       (5)人のつながり、歴史のつながり
 
戊辰戦争の戦後処理において、黒田清隆は西郷隆盛に「敗軍の将に対して傲岸な態度で接してはならない」ときつく諭されたそうです。西郷の考えは、庄内藩士たちを戦いの相手ではなく、新しい時代の同胞とする考え方でした。そうした人の考えや心が人をつなぎ、歴史をつないでいくんだな、と感じさせられた札幌桑園のことでした。
 
【参考にしたサイト】
(1) 桑園の由来(桑園地区(札幌市)のホームページ)
(2) 桑園と庄内藩士
(3) 松本十郎
(4)松本十郎 (開拓使大判官)

  

2012.08.15  
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