レポート  ・韓国儒教文化 〜 宗廟・社稷壇   
− 韓国儒教文化 〜 宗廟・社稷壇 −
夜のソウルは十字架があちこちで星のように輝いています。それぐらい韓国には教会が多く、韓国は仏教徒よりむしろキリスト教徒の多い国です。そして、宗教とは別に、韓国では『長幼の序』(年齢・地位・先後輩などによる序列)や『忠と孝』の『孝』(親や先祖を敬う心)を重んじるなど、朱子学を中心とした朝鮮王朝時代の儒教文化が、今日もなおかなりの影響力をもっているといわれます。
 
その背景をまざまざと見せつけたのが、ソウル市内にある世界遺産・『宗廟』(そうびょう)でした。朝鮮王朝時代の歴代王と王妃の神主(しんしゅ、位牌)を祀って祭祀を行う国家最高の祠堂 (しどう) で、総面積56,000坪余りの敷地に、同時代の単一木造建築物としては世界最大規模を誇るといわれる全長 101mの正殿は、壮大そのものでした。
 
儒教では人が死ぬと魂と魄に分離され、見えない精神すなわち魂は天に帰り、肉体である魄は地に帰ると考えました。それで、魂を祀る祠堂と魄を祀る墓をそれぞれ造って先祖を崇拝しました。とくに死んだ先祖の魂のこもった位牌を作って祭礼を行い、子孫たちの精神的支えとしたのです[1]
 
1392年、高麗王朝の武将の一人だった李成桂(イ・ソンゲ)は、高麗王朝を倒し、翌年に国名を朝鮮と改め、1394年に都を開城(ケソン、現在板門店と軍事境界線を間近にしている北朝鮮の軍事沿線都市)から漢陽(現在のソウル)に移すことになりますが、李成桂は、高麗王朝時代の仏教にかわり、朝鮮王朝では儒教の新しい学派である朱子学を国教と定めました。
 
儒教では、宮廷の左側に『宗廟(そうびょう)』を、右側に『社稷壇(しゃしょくだん)』を置かなけばならないという礼法がありました。社稷壇は、土地をつかさどる神である『社(サ)』と五穀をつかさどる神である『稷(ジッ)』を祀り、国家を上げて祭祀を行う祭壇でした。
 
中国では戦争に勝つと、戦いに勝利した国が敗北した国家の社稷壇を破壊し、周囲の森を斬り拓いて天地のつながりを絶ち、前の王朝の廟や墓を破壊して祭祀を滅することによって、すなわち国家を滅ぼすこととされました[2]。 宗廟と社稷壇は、国家そのものとされたわけです。
 
李成桂は、都を開城から漢陽に移す際、正宮を建てるに先立ち1394年に、正宮を建てる場所の東側に宗廟を、西側に社稷壇を建て、その翌年の1395年に正宮・景福宮を建てました。
 
そして、新たに建てた宗廟に4代先祖の位牌を移して祀りました。それ以降、現在でも毎年5月に、全州李氏一族が集まって『宗廟祭礼』という祭礼が行われています。一方、社稷壇の史跡は現在、それを中心とした約19万平方メートルの公園となっており、市民の憩いの場となっています[3]。 ソウルへの旅は、朝鮮王朝時代の儒教文化の一端に触れられた旅でもありました。
 
下記の旅行記があります。
 ・世界遺産宗廟 − 韓国ソウルの旅(5)
 → http://washimo-web.jp/Trip/Seoul05/seoul05.htm
 
【用語】
〔神主〕(しんしゅ)= 儒教で、死者の官位・姓名を記して祠堂に安置する霊牌。位牌(いはい)。
〔祠堂〕 (しどう) = 寺で、檀家の位牌をまつる堂。在家では、祖先をまつる部屋や堂。たまや。みたまや。持仏堂。位牌堂。廟(びよう)。
 
【参考にした文献、サイト】
[1] 宗廟へ入場のときもらったパンフレット『宗廟』
[2] フリー百科事典『ウィキペディア』
[3] 社稷公園|韓国ソウル|観光スポット|「コネスト」
  

2009.10.28  
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