レポート | ・薩摩藩英国留学生 |
− 薩摩藩英国留学生 − |
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文久3年(1863年)の薩英戦争において、西欧文明の偉大さに痛感させられた薩摩藩は、幕府の鎖国令を犯して、慶応元年(1865年)15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣しました。 鹿児島中央駅の正面には、薩摩藩英国留学生をモチーフにとした中村晋也氏制作による『若き薩摩の群像』の像がそびえたっており、県歴史資料センター黎明館では今、薩摩藩英国留学生渡航 140年記念企画展が開催されています。 留学生派遣計画 産業革命を経た欧米列強は、19世紀には市場と植民地を求めてアジアへ進出してきました。薩摩藩は本土最南端にあって、琉球を支配しているという地理的、政治的理由から、全国に先駆けて外圧の危機に直面していました。 28代藩主・島津斉彬(なりあきら/1809〜1858年)は、集成館事業に代表されるように積極的な近代化政策を進め、その一環として欧米への留学生の派遣を計画しました。1857年10月に、斉彬は市来四郎を琉球に送り、フランス人と具体的な交渉をさせますが、翌年の7月に斉彬が急逝したため、計画は中止となりました。 留学生派遣へ しかし、薩英戦争で西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は、斉彬の遺志を継いで、新納久脩(にいろひさのぶ)(34)、松木弘安(のちの寺島宗則)(34)、五代友厚(31)、および通訳の4名の使節団と15名の留学生を派遣します。 幕府の鎖国令を破っての派遣だったので、全員変名を使って、甑島大島辺出張という名目で慶応元年(1865年)4月17日の朝、串木野市羽島浦から英国貿易商グラバーが用意した蒸気船オースタライエン号で、密かに英国に旅立ちました。 一行は、シンガポール、スエズ、地中海を経て、約2ヵ月後の6月21日にロンドンに到着し、学生たちはロンドン大学に留学します。途中、船上で髷(まげ)を切り落としたと言われます。 足跡と帰国後の活躍 新納久脩と五代友厚らは、イギリスで紡績機械を購入し、1867年に鹿児島市磯に、日本最初の機械紡績工場『鹿児島紡績所』を建設しました。機械の据付や操業指導のため来日した英人技師たちの宿舎が、磯に現存する『異人館』です。 松木弘安(のちの寺島宗則)は、2年間の経験を生かして、イギリス外務省に働きかけ天皇のもとに統一国家日本をつくる必要性を力説して、イギリス当局の理解を得ました。それ以来、イギリスの対日政策は一変し、フランスが幕府を支援するのに対して、イギリスは、薩長倒幕派を支援するようになり、倒幕運動の進展に重大な影響を与えました。 薩摩藩は、1867年のパリ万国博覧会に、幕府と対等の独立国のような立場で出品しますが、そうできたのも彼らの働きの結果であると言われています。 留学生は英国留学後、大部分の人がアメリカやフランスに渡って留学生活を続け、帰国後明治政府に仕えて、留学の成果を大きく発揮しました。 鮫島尚信、吉田清成、中村博愛(ひろちか)は共に公使となって外交界で活躍し、田中盛明は生野銀山の開発に尽力。畠山義成は、東京開成学校(現在の東京大学)初代校長、森有礼(ありのり)は、初代文部大臣となって、いずれもわが国の文教の発展に尽くしました。 松村淳蔵(市来和彦)は、アメリカアナポリス海軍兵学校を卒業してわが国海軍の建設に力を尽くし、海軍中将となりました。 村橋久成は、戊辰の役で砲隊長として活躍し、その後北海道開拓使となり、サッポロビールの生みの親となりました。 留学当時13歳という最少年の長沢鼎(かなえ)は生涯をアメリカで送り、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に新生面を開き、ぶどう王と言われました。 また、新納久脩は家老ののち司法官となり、町田久成は内務省に出仕し、五代友厚は大阪商工会議所を創設して、初代会頭となり、松木弘安(寺島宗則)は外務卿となって活躍しました。 このように、薩摩藩当局の勇気ある決断と若き薩摩の青年たちの積極的熱意は、日本の歴史を大きく転換させ、新生日本を建設する原動力となりました。 エピソード〜長州藩留学生との出会い 留学生一行のロンドンでの生活が本格的に始まろうとしていた頃、興味ある出来事が起きています。当時留学生一行の面倒を見ていたグラバー商会のライル・ホームという人が「昨日、(ロンドンの)路上で三人の日本人に出会った」という話を留学生にして聞かせたのです。薩摩藩留学生たちは、自分たちより早くロンドンに日本人がきていたことを知って驚きます。 日本が開国か攘夷かに激しく揺れ動いていた幕末期の文久三年(1863年)に、五人の長州藩青年が英国に留学するため密出国します。井上馨、伊藤博文、そして井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の五人です。 薩摩藩留学生の場合と違って、自費による密航でしたが、世界情勢を知りたいという井上馨らの熱情を認めて、藩が黙認したロンドン留学でした。しかし、やっとの思いでロンドンに着いた矢先に日本で薩英戦争が勃発します。井上馨と伊藤博文の二人は、世界の情勢を藩に説くため翌年(1864年)急遽帰国します。 あとに残った三人の長州藩留学生が、ホームがロンドンの路上で出会ったという日本人だったのです。その三人の長州藩留学生は後日、薩摩藩留学生を宿舎に訪ね、留学に至る経緯や井上と伊藤が前年に帰国したことなどを話して聞かしたそうです。薩長同盟がまだ締結されていない、薩長が犬猿の仲にある時期のことでした。この薩摩藩と長州藩の留学生の交流は、その後も末永く続いたそうです。 長州藩の三人の留学生は、山尾庸三が1870年に帰国して、工部卿や法制局長官等を歴任、井上勝が1868年に帰国、京浜・阪神間鉄道を敷設して、鉄道庁長官、貴族院議員勅選、遠藤謹助が1866年に帰国して、造幣局長を任じられるなど、主に技術畑で留学の成果を実らせています。 【参考にしたサイト】 このレポートは、『若き薩摩の群像』像碑の土台にある解説文(碑の由来T、U)と、県歴史資料センター黎明館で開催されている渡航 140年記念企画展の解説文を参考にして作成しました。また、「長州藩留学生との出会い」につきましては下記のサイトを参考にしました。 [1]『薩長派遣留学生の明治維新』 → http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme10.htm (トップページ → http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kakotheme.htm) [2]『UBE TOWN21 五人の留学生・二人の中退生』 → http://www.ut21.net/~kagee/story/7/7_ryuugaku.html (トップページ → http://www.ut21.net/~kagee/ ) 下記のページに、薩摩藩英国留学生をモチーフにした『若き薩摩の群像』の像と、旅立ちの地である串木野市羽島を訪れた旅行記があります。 ■『旅行記 ・若き薩摩の群像− 鹿児島市』 → http://washimo-web.jp/Trip/SatsumaStud/satsumastud.htm |
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2005.07.13 | ||||
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