レポート  ・梅崎春生著『桜島』   
− 梅崎春生著『桜島』 −
1944年6月、マリアナ沖海戦で大敗北を喫した日本海軍は、戦局が悪化する中で、空母機動部隊の再建を事実上あきらめ、特殊奇襲兵器を優先的に開発準備するようになります。この構想に基づきつくられたのが、小型のベニヤ板製モーターボートに炸薬(さくやく)を搭載し、搭乗員が乗り込んで敵艦に体当たりする特殊奇襲兵器・『震洋』(しんよう)でした。
 
米海軍の日本本土上陸に備え、本土最南端を防衛する震洋隊基地の一つが置かれていた坊津(現鹿児島県南さつま市)に昭和20年(1945年)5月、通信分遣隊下士官として赴任したのが梅崎春生でした。坊津に赴任後まもなく桜島通信隊に転勤、同年8月15日の終戦を桜島の洞窟陣地で迎えました。
 
終戦によりいったん福岡に復員しますが、9月に上京。友人の下宿先に強引に転がり込み、坊津、桜島での海軍生活をもとに書き上げたのが小説『桜島』でした。翌21年9月、『素直』創刊号に掲載されました。
 
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さまざまの屈辱の記憶は、なお胸に生々しい、思い出しても歯ぎしりしたくなるような不快な思い出は、数限りない、自分が目に見えて卑屈な気持ちなっていくこと、それがおそろしかった。
 
吉良兵曹長の心に巣くう何者かが彼をかり立てていたようであった。私の理解を絶した。おそらく彼自信にも理解できない鬼のようなものが、彼の胸を荒れ狂っているようであった。(あの眼がそれだ)(戦争は)人間の心の奥底にある極度に非情なものを、育てて行きみがいて行き、それを自我にまで拡げて行ったに違いない。
 
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『私はねえ、近頃、滅亡の美しさということを考えますよ』『廃墟というものは、実に美しいですねえ』『人間には、生きようという意志と一緒に、滅亡に赴こうという意志があるような気がするんです。』
 
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通信科の兵隊を集めての故(ゆえ)もない制裁を課す吉良兵曹長。死の予感に脅える中で、自分の心に何度も滅亡の美を言い聞かながら、玉音放送の直前の日にグラマンに打たれて死んでいった見張り兵。
 
死ぬことが決まっている極限状況下の心象風景を描き、戦争の実相と『美しく死ぬこと』の虚妄性を暴き出した作品です。
 
『桜島・日の果て・幻化』(講談社文芸文庫)には、『著者に代わって読者へ 幻灯のように』と題する梅崎恵津夫人の解説が掲載されており、そのなかで、『桜島』が書きあげられてからその作品を発表するまでの約半年間の梅崎は、不安と焦燥の毎日ではなかったか、自信と危惧とが入り交って、酒がなければ落ち着かぬように見えた、とあります。
 
『素直』創刊号に記載され発表されると好評を博し、梅崎春生の出世作となりました。
 
昭和20年8月15日昼の、雑音のため聞き取れなかった玉音放送が『終戦の御詔勅』だと知った通信兵たちは、それを確かめに暗号室に向かいます。そのラストシーンがとても感動的です。”桜島岳の天上の美しさ”、それは再び得た”生”への賛美に他なりません。
 
〜 壕を出ると、夕焼けが明るく海に映っていた。道は色褪(あ)せかけた黄昏(たそがれ)が貫いていた。吉良兵曹長が先に立った。崖の上に、落日に染められた桜島岳があった。私が歩くに従って、樹々に見え隠れした、赤と青との濃淡に染められた山肌は、天上の美しさであった。石塊(いしころ)道を、吉良兵曹長に遅れまいと急ぎながら、突然瞼(まぶた)を焼くような熱い涙が、私の眼から流れ出た。〜
 
 2006年8月15日に除幕された梅崎春生『桜島』文学碑(桜島、溶岩なぎさ公園)
   
梅崎春生(うめざき・はるお)
(1915・大正4年〜1965・昭和40年)福岡市生れ。旧制修猷館中学校(現福岡県立修猷館高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部国文科に入学。大学卒業後は、東京市教育局教育研究所に雇員として勤務するが、1944年(昭和19年)、海軍に召集され、暗号特技兵などを務める。戦後、海軍体験を踏まえた「桜島」(昭和21年)を発表し、注目を浴びる。続けて「日の果て」(昭和22)、「B島風物誌」(昭和23年)などを発表し、戦後派作家としての地歩を確立。「ボロ家の春秋」(昭和29年)で直木賞を受賞。遺作となった「幻化」は、著者の最期を飾るにふさわしい傑作といわれる。昭和40年7月、肝硬変により死去。享年50歳。
 
【参考図書】
『桜島・日の果て・幻化』(梅崎春生・著)/講談社文芸文庫/1989年(平成元年)10月第1刷発行/定価\1200+税
(※部分的に引用させてもらいまいました。)
 

2008.08.20 
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