レポート | ・西郷菊次郎と台湾 〜 西南戦争人物伝(4) |
− 西郷菊次郎と台湾 〜 西南戦争人物伝(4) −
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幼少の頃から西郷隆盛に指導を受け、死の瞬間まで西郷に付き添い、深く尊敬し続けた村田新八(享年42歳)。”飫肥(おび)西郷”と呼ばれ親しまれ、可愛岳(えのだけ)登山口中腹で自刃して果てた小倉処平(同32歳)。佐土原藩主の三男として生まれながら城山で戦死した島津啓次郎(同21歳)。民謡・田原坂に歌われる”馬上ゆたかな美少年”のモデルだといわれる村田岩熊(同19歳)は、村田新八の長男。 西南戦争に倒れた彼らは皆、洋行帰りの前途有望な若者でした。榎本朗喬著『小説島津啓次郎』に、”彼をして寿を全うせしめれば、其の経綸によって国家に裨益する所、蓋し尠少でなかったであろう”とあります。そんな西南戦争人物伝の中にあって、是非触れておきたいのが西郷菊次郎です。 西郷菊次郎は、西郷隆盛が奄美大島に流されたおり、愛加那(あいかな)との間にもうけた子供(庶子長男)です。8歳のときに西郷本家に引き取られ、13歳で2年余の米国留学を果たします。帰国して3年後の17歳のとき、西南戦争が勃発。薩軍の一員として参戦しますが、高瀬(熊本県玉名市)の戦いで右足に銃創を負います(この傷がもとで、一生義足を装着することになります)。 父西郷は、自分の下僕だった熊吉に菊次郎の付き添いを命じました。田原坂が政府軍の手に落ちると、以後熊吉に背負われて、人吉そして宮崎へ困難な山岳地帯の敗走行を重ねることになります。ついに、和田越(宮崎県延岡市)の決戦に敗れると、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた西郷は、解軍の令を出し、明治10年(1877年)8月18日早暁、鹿児島へ向けて可愛岳突囲を決行します。 その前の晩、西郷は菊次郎が治療のため身を寄せていた児玉惣四郎宅に出向き、菊次郎と熊吉に会い、『明日、官軍に降れ。おはんたち(君たち)の命を大切にして家族共々親に孝養を尽くせ』と諭します。それでも、父の後を懸命に追う二人でしたが、ついて行けず道に迷い、投降者の印として白布を腕に結びつけて下山したのでした。 − 昨日の敵は今日は身内 −。直ちに政府軍兵士に捕らえられて屯所に連れて行かれた先は、叔父・西郷従道(西郷隆盛の弟)の部屋でした。以後、菊次郎は西郷従道の支援を得ながら外務省に奉職することになります。 *** 西郷菊次郎が台湾総督府参事官心得を命じられたのは、明治28年(1895年)34歳のときでした。その1年後に台北県支庁長に任じられ、さらにその1年後、台湾の北東部の宜蘭(ぎらん)の初代庁長(県知事)に任ぜらます。 台湾総督は初代の樺山資紀以来、2年9ヶ月の間に、2代桂太郎、3代乃木希典と三人が交代し、その間の台湾に対する軍人による統治政策は、治安行政の域を出ず、いたずらに莫大な国費を消耗するのみで、完全に行き詰っていました。 特に、台湾各地で反抗を繰り返す土匪(どひ=その土地に住みついて害をなす集団)の扱いに手を焼いていました。台湾統治の問題は世論の非難攻撃の的となり、台湾を一億円でフランスに売却せよという議論まで起こったといわれています。 そうしたなかで菊次郎は、どうしたら固い島民感情を融和させることができるか昼夜悩み、結局時間をかけて島民の心の中に、こちらの心を溶け込ませる努力以外に方法がないという結論に達します。そして、菊次郎が宜蘭庁長に就任して9ヶ月後、唯一台湾を治めることの出来る人物として児玉源太郎が推され、4代総督に就任します。 児玉は、後藤新平を民政長官に抜擢し、後藤は、日本国内の法制をそのまま文化・風俗・慣習の異なる台湾に持ち込むことは、生物学の観点から困難であると考え、台湾の社会風俗などの調査を行ったうえで政策を立案し、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採りました。さらに後藤の召集によって民政部殖産局長に就任した新渡戸稲造は、台湾の糖業を改革し経済基盤を安定化させていきました。 西郷菊次郎が後世に残る仕事をしたのは、宜蘭庁長の時でした。河川工事、農地の拡大、道路の整備、樟脳産業の発展、農産物の収穫増加政策、土匪の反乱を治めて住民の生活を安定させる、そして教育の普及などの事業に取り組みましたが、一番の偉業は、巨額を投じ、『西郷堤防』と呼ばれる宜蘭川堤防(全長約 1.7km)を完成させたことでした。 蘭陽平野の中心に位置する宜蘭市は、東は太平洋に面し、西側郊外には美しい田園風景が広がり、その中を宜蘭川(蘭陽渓)がゆっくり東へ流れていきます。風光明媚なその景色も、夏、台風の直撃によって大暴風雨となると一変します。宜蘭川の濁流は堤を乗り越えあるいは堤を切断して田畑や家を押し流し、住民は連年洪水に苦しめていました。 1年5ヶ月の工事によって完成した宜蘭川堤防によって洪水は起きなくなりました。その恩恵に感激した宜蘭の民衆有志は、『西郷庁憲徳政碑』と刻んだ高さ 4mほどの石碑を立てました。その石碑は、現在も宜蘭川河畔に屹立し、菊次郎の徳政を後世に伝え続けています。 *** 宜蘭庁長を5年半で依願免官した西郷菊次郎は2年後の明治37年(1904年)10月、京都市長に就任し、7年余り勤めました。その後鹿児島に帰り、本HPの管理者の住む鹿児島県さつま町にあった永野金山(山ヶ野金山)の島津家鉱山館長に命じられ、8年余り在任しました。昭和3年(1928年)、鹿児島市の自宅において心臓麻痺で急死。享年68歳。西南戦争から数えて51年の生涯でした。 島津家鉱山館長に就任すると菊次郎は、鉱業所で働く多くの鉱夫の子弟の健全な心身を養う場として、自費で武道館を建設し、夜学校も開設しました。またテニスコートをつくって、山の中の住民にテニスを広めたり、アメリカ社会から学んだ発想で職員クラブを作ったりしました。当さつま町では、文武両道の人材育成に当った氏の功績をたたえ、現在でも毎年11月、『西郷菊次郎顕彰剣道大会』が開催されています。 【参考図書】 佐野幸夫著『西郷菊次郎と台湾−父西郷隆盛の「敬天愛人」を生かした生涯−』(南日本新聞開発センター、2002年11月発行) |
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2010.08.04 | ||||
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