レポート  ・龍馬と女たち   
− 龍馬と女たち −

史家の故平尾道雄さんの言葉に、坂本龍馬は「奇跡的存在」であるという言葉があるそうです。龍馬は、物おぼえのわるい、ひどい泣き虫のいじめられっ子で、13歳の頃まで寝小便の癖がなおらない子供だったようです。家父や兄たちはなげき、龍馬の将来を案じます。


末っ子の龍馬には、すぐ上に三つ年上の乙女(おとめ)という姉がいました。この姉は、背丈が5尺8寸(1m74cm)もあって、両手で米俵二俵をらくらく持ち歩く体格の持ち主だったようです。武芸にすぐれ、男袴(はかま)姿で栗毛馬に乗り、薙刀(なぎなた)を振り回し、「坂本のお仁王(におう)さま」と異名されたばかりでなく、三味線、一弦琴、謡曲、踊りまで習い、いずれも玄人ばなれしていました。ただ、炊事や裁縫だけはできなかったようです。


この姉だけは、龍馬の将来に期待を感じ、剣術の初歩や習字を教えます。司馬遼太郎さんは、「この三つ上の姉が竜馬の少年期の人格を形成し、かれの生涯を通じて複雑な影響を残した」と書いています。乙女は、龍馬の女性感にも微妙な影響を与えたようです。


龍馬は、14歳のときから城下の日根野道場で小栗流剣術を学びはじめますが、意外にも才能があって驚異的な進歩を見せます。このことに自信を持った龍馬は、この頃から奇跡的な変貌を遂げていきます。


19歳のとき、龍馬は江戸に出て北辰一刀流の千葉道場に入門します。その頃千葉道場は、創始者である千葉周作の弟の定吉が主宰していました。定吉には「さな子」という長女がいて、この人もまた、千葉道場の免許皆伝を得た薙刀の名人で別嬪(べっぴん)でしたが、面をつけると鬼と化すと評されて「鬼小町」などと呼ばれていました。


このさな子が、龍馬に想いを寄せていたことはよく知られています。龍馬が江戸を立とうとするある日、さな子は、あなたの嫁にして欲しいと想いを打ち明けます。龍馬は、「私は風雲の中に身を置く身、明日をも知れぬ命です」と言い、自分の袴(はかま)の片袖をひきちぎって形見として贈ります。


さな子は、この形見の品を婚約のしるしと思ったのでしょうか。龍馬への想いを抱いて一生独身で通しています。さな子は晩年、「私は坂本龍馬の許婚者でした」と言って、形見の片袖を取り出してきて見せたといわれます。


龍馬が江戸を出立し、勝海舟が設立した神戸海軍操練所の塾頭になったのは、文久3(1863)年、龍馬29歳のときでした。その後、神戸海軍操練所の閉鎖に伴い、長崎に行って日本初の商社といわれる亀山社中を設立したのが、慶応元(1865)年、31歳のときでした。この頃、上方では京都伏見の船宿寺田屋を定宿にして活動しますが、そこの三つ年上の女将お登勢が好きだったようです。


龍馬は、30歳のとき、京で一人の娘を助けます。京で町医者を開業していた勤王家の楢崎将作と言う人が病死して、その一家が困窮します。高利を借りたらしく、ならず者が来て娘の一人を大阪の女郎屋へ売り飛ばします。留守中に起きたその出来事を知ったその娘の姉は、大阪へ乗り込んで、悪党の顔をひっぱたき、力づくで妹を取り戻してきました。


小柄で美人だがなかなか肝のすわったこの女性が、おりょう(お龍)です。龍馬は、一家の窮状を不憫(ふびん)に思い、寺田屋のお登勢に頼んでおりょうを雇ってもらい、後に、おりょうはお登勢の養女になります。


慶応2(1865)年正月、龍馬は同志の一人と寺田屋の二階にいるところを、100 人もの幕史に囲まれます。風呂に入っていたおりょうがそのことに気づき、とっさの判断で素裸のまま階段を登って二階に駆け込み、龍馬たちに知らました。


機転を利かしたおりょうのお蔭で、九死に一生を得た龍馬は、伏見の薩摩藩邸にかくまわれ、さらに京の薩摩藩邸に移されます。このことが縁で二人は結婚し、西郷隆盛らのすすめがあって、薩摩へ旅行に出かけます。


司馬遼太郎さんの著作物によると、新撰組や見廻組(みまわりぐみ)が龍馬を血まなこになって捜している京の町中を二人は手をつないで平気で歩くので、野放図な二人に閉口した西郷が、龍馬を暗殺者から守るために、薩摩へ旅立たせたのだそうです。


龍馬とおりょうは、塩浸温泉(現鹿児島県牧園町)で傷をいやしながら霧島に遊びました。二人は、山頂にある「天の逆鉾(あまのさかほこ)」を見に高千穂峰(たかちほのみね)にも登り、龍馬はその登山の様子を絵入りの書簡にしたためて姉の乙女に送っています。その書簡によると、天の逆鉾の彫り込みが天狗に似ていると言って二人で笑ったり、霧島神宮にお参りしたりしたそうです。薩摩への旅88日間は、二人の生涯で最も楽しいひと時で、日本最初の新婚旅行と言われています。


おりょうは、龍馬の姉の乙女に似たところがあって、肝がすわっていて、芸が達者で音楽好きでしたが、炊事や裁縫はまるっきりだめだったようです。龍馬はそれで良いと思っていたわけではないようで、「国のために骨身を砕いて奔走する自分をいたわってくれてこそ、妻として国家に尽くす法であると言い聞かせ、おりょうは、日々、縫物や張物をしています」という内容の手紙を姉の乙女に送っています。


新婚旅行に出かけた翌年11月、龍馬は京都近江屋で刺客の凶刃に倒れます。享年33歳でした。龍馬の死後、おりょうはいったん土佐に身を寄せますが、土佐から早々に立ち去っています。おりょうの非行や乙女との不和がその原因だったと言われています。


佐々木高行という人の回顧録に、おりょうの印象が記述されています。「同人(龍馬)妻は有名なる美人なれども、賢婦人や否は知らず。善悪ともに為しかねるように思いたり候」と。推察するに、おりょうは、当時の標準的な女性像からすると規格外れの印象を与える人であったように思われます。


そんな女性と馬があった龍馬は、当時としてはめずらしく先進的な西欧的女性観をもっていたのでしょうか。または、姉の乙女の開放的で自由闊達な生き方が龍馬の女性観に影響を与えていたのかも知れません。


おりょうは、土佐を離れた後、京都、江戸を流浪し、明治8(1875)年に、横須賀で呉服商西村松兵衛のもとに「西村ツル」として入籍し、それから31年後、66歳で死去しています。考えてみると、龍馬と過ごしたのはわずかに3年と数ヶ月でした。龍馬の死後、その10倍もの長い歳月を、あまり恵まれない生活の中で生きた人のようですが、それでも幕末の英雄・坂本龍馬の妻に違いはありませんでした。


彼女の墓は、横須賀市大津町の信楽寺というお寺にあって、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれているそうです。そして、昨年(2005年)11月には、大津観光協会の主催でおりょうをしのぶ「おりょうまつり」というまつりが開催させ、龍馬の故郷の「よさこい節」や「長崎ぶらぶら節」が演奏され、おりょうが愛用した中国楽器・月琴の優雅な演奏が披露されたそうです。


【備考】
このレポートは、下記の書籍等を参考にして書きました。
◆『司馬遼太郎が考えたこと−第2巻』司馬遼太郎著/新潮社/2001年12月発行
◆旅行記  ・龍馬新婚旅行の地〜霧島 − 鹿児島県霧島 も併せてご覧下さい。
(→ http://washimo.web.infoseek.co.jp/Trip/Kirishima/kirishima.htm )


2005.03.25  
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