俳句鑑賞  ・虹   
− 虹 −

太陽の光が空気中の水滴によって屈折・反射されてできる虹は、夏に多く見られるので、夏の季語になっています。多くの人がたくさんの句を詠んでいますが、福永耕二(1938〜1980)に、噴水の虹を詠んだ句があります。
 
    噴水の虹に見とれてみな貧し 福永耕二
 
昼どき、立ち寄った公園の噴水に虹がかかっていて、『まぁ〜、きれい!』と思わず見とれてしまいます。よくある、ありふれた光景ですが、下五の『みな貧し』で、句の意味は深長になり、解釈は広がりをみせます。
 
鹿児島県川辺(かわなべ)町生まれの福永耕二は、地元の大学に在学中、20歳の若さで水原秋櫻子(しゅうおうし)の主宰する俳誌『馬酔木(あしび)』の巻頭を飾り、わずか32歳の若さでその編集長を務めるまでになりましたが、1980年(昭和55年)に42歳の若さで志半ばにしてこの世を去りました。
 
この句は、第二句集『踏歌』に収められていて、1974年(昭和49年)の作品とあります。2年前に父を亡くし、故郷に一人母を残していた時期ですが、この頃、子供の句もたくさん詠んでいるので、子供の手を引いて公園へ出かけたのかも知れません。
 
例えば、今風に言えば、六本木ヒルズの革張りの椅子に心地良く身を沈め、何十億円、何百億円と儲ける金儲けの指示をあれこれ出している金持ちの人たちは、果たして、噴水の虹に見とれることってあるのでしょうか? おそらく、そういう人たちは公園に出かけることすらないかも知れません。
 
そんな金持ちに言わせると、噴水の虹に見とれるなんぞ、所詮は貧乏人のすることよということになるでしょう。そう解釈すると、救いようも無く重い句になります。
 
見方を変えれば、決して裕福ではないからこそ噴水の虹の綺麗さに目が留まるということになります。噴水の虹を詠んだ句ですが、噴水の虹は、子供の手を引いて公園へ出かけたり、庭先に咲く四季折々の草花を愛(め)でたり、家族がつつがなく一日を過ごす、そうした日常のありふれた幸せを意味しているようにも思います。
 
耕二はある評論の中で、『すぐれた作品はすくれた精神、すぐれた人間性から生まれるもので、日々の生活を俳句に詠むということは、人生をよりすばらしいものにしようと創造しつづけることである』と言っている、と句集『踏歌』の解説にあります。あなたは、この噴水の虹の句、どのように解釈されますか。    〔文中敬称略〕
 
【参考書籍】
・福永耕二句集『踏歌』(1997年発行、邑書林句集文庫)
 

2006.07.19
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