レポート | ・飛騨古川と『あゝ野麦峠』 |
− 飛騨古川と『あゝ野麦峠』 −
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『あゝ野麦峠』 〜 日本アルプスの中に野麦峠と呼ぶ古い峠道がある。かつては飛騨と信濃を結ぶ重要な交通路であったが、いまではその土地の人さえ知る人も少ないほど忘れ去られた道になっている。 また「野麦」という名から、人は野生の麦のこかと思うらしいが、実はそうではなく、峠一面をおおっているクマザサのことである。十年に一度くらい大凶作を騒がれるような年には、ササの根元から、か細い稲穂のようなものが現れて、貧弱な実を結ぶ。それを飛騨では野麦といい。里人はこの実をとって粉にし、ダンゴをつくって、かろうじて餓えをしのいできたという。(略中) そのクマザサにおおわれた峠を、幾千幾万とも知れないおびただしい飛騨の糸ひきたちが五十人、百人と群をなして越え、島々谷(上高地登山口)へ下って、そこから諏訪湖畔の岡谷、松本、上田、佐久方面の向上へ向かった。 〜 以上は、1968年(昭和43)に発表された山本茂実のノンフィクション文学『あゝ野麦峠』(副題:ある製糸工女哀史)の冒頭の部分です。戦前に岐阜県飛騨地方の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて、片道30里(120km)前後の距離がある長野県の諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出ました。 吹雪の中を危険な峠雪道を越え、また劣悪な環境の元で命を削りながら、当時の富国強兵の国策において有力な貿易品であった生糸の生産を支えた女性工員たちの姿が描かれています。山本は10数年におよび飛騨・信州一円を取材し数百人の女工、工場関係者からの聞き取りを行ったといいます。 吉野すえ〈明24・古川大江〉の話 〜 それは苦しいこともございました。いっそ諏訪湖にとび込んで死んでしまおうと思ったことも何度あったか知れません。それでも暮れに帰って、一年働いだ金を渡したら母(かかま)はその金を抱きしめて、「これで年が越せる」と声をあげて泣き出し病気で寝ていた父(ととま)はわざわざ起きあがって、「すえ、ご苦労だったナ、ありがとう、ありがとう」そういって手を合わせて何度も頭をさげて礼をいってくれました。 金は一升マスに入れて神棚に供え、お灯明をあげて、その下で明るいお年取りをしました。あの時の母(かかま)の顔を思うと、工事でどんな苦しいことがあっても、ワシらはガマンできたのでございます。〜 『あゝ野麦峠』(KADOKAWA/角川学芸出版 (1977/4/1))より 『あゝ野麦峠』の文学碑と工女 飛騨市古川町の本光寺に建つの文学碑と工女像が建てられていて、以下のように刻まれています。 二月もなかばを過ぎると 信州のキカヤに向かう娘たちが ※キカヤ = 製糸工場 ぞくぞくと古川の町へ 集まって来ます みんな髪は桃割れに 風呂敷包みをけさがけにして 「トッツァマ、カカマ達者でナ」 それはまるで楽しい遠足にでも 出掛けるように元気に出発して 行ったのでございます 野麦峠ゆかりの宿『八ッ三館』 宮川をはさんで本光寺の向かい側に老舗旅館『八ツ三館』(やつさんかん)があります。約 160年の歴史を有しながら現在もなお現役の料亭旅館として愛されている旅館で、国登録有形文化財に指定されています。しかも、野麦峠ゆかりの宿です。 〜 二月も半ばをすぎると信州のキカヤへ行く娘たちが高山の町に集まってくる。もっと奥地の数河(すごう)、稲越、天生(あもう)、月ヶ瀬、荘川あたりの人たちは、深い雪の神原峠、天生峠、小鳥峠などをそれぞれに越えて一たん古川の八ッ三、能登屋、大関屋なぢに一泊し、ここから次の日高山の宿に集合したものである。 〜 〜 そのころ、古川町の工女宿向町の八ッ三旅館の前は工女の荷物をとりに来た親たちで、毎日ごった返して、廊下や裏庭は足の踏み場もなかった。大谷運送店の扱う工女の荷は実はここへ運ばれていたのである。〜 以上、『あゝ野麦峠』より。 三寺まいり 一年の糸引きの出稼ぎから帰省した工女たちは、2月中旬ごろまで故郷ですごしました。その間の楽しみの一つが、毎年1月15日に開催される『三寺まいり』でした。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご遺徳を偲んで、町内の3つのお寺に人々が詣でる伝統行事で、工女たちもこの日は着飾って巡拝しました。 『嫁を見立ての三寺まいり』と飛騨古川の小唄にも歌われるように、これが若い男女の出会いの場となったことから、現在では『縁結びのおまいり』とし知られるようになりました。→ 旅行記 ・三寺まいり − 岐阜県飛騨市古川町
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2018.01.24 | ||||
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