レポート  ・ノイシュヴァンシュタイン城物語   
− ノイシュヴァンシュタイン城物語 −

ノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)は、ドイツ語で「新しい白鳥の城(石)」という意味です。その名の通り、湖や山を背に、絵に描いたようなメルヘンチックで美しい、ウォルト・ディズニーのシンデレラ城のモデルにもなっている城です。


しかし、明るいメルヘンチックな外観とは打って変わって、城の内部(撮影禁止になっています)は、薄暗く、ワーグナーのオペラ白鳥の騎士伝説「ローエングリン」や「タンホイザー」をイメージして造られた壁画や装飾品、調度品などはあまりに重厚で豪華すぎて、ルートヴィッヒ二世の狂気すら感じられるほどです。


私たちは、この城とともに、この城を建てたルードヴィッヒ二世の悲劇に終わった波乱の生涯に興味を持たずにはいられません。


◆『旅行記 ・ノイシュヴァンシュタイン城 − ドイツ』を見る。
→ http://washimo.web.infoseek.co.jp/Trip/Neusch/neuschwanstein.htm




ルードヴィッヒは、1845年8月25日、ミュンヘンのニンフェンブルク宮殿で、のちのバイエルン国王マックス二世とプロイセン王家ハノーバー・ブラウンシュヴァイク家の王女マリーの間に長男として生まれました。父王は、ルードヴィッヒに厳格な教育を授けましたが、将来国民の代表者たる王になるための教育は何も行わなかったといわれています。ルードヴィッヒ二世の極端な人間嫌いや極端な帝王意識の原因は、この辺の教育の失敗によるものと思われます。


ルードヴィッヒは、青年時代に父から継いだホーエンシュヴァンガウ城で生涯の大半を過ごします。この城には、いたるところに中世の伝説の世界やドイツの歴史を描いた壁画があり、ルードヴィッヒに少なからず影響を及ぼしたといわれます。中世騎士道への憧れを持ち始め、若き王子は、ロマンチックなものへの傾倒を強くし、高貴なものへの愛に目覚めていきます。


ホーエンシュヴァンガウ付近の森や谷を逍遥することが好きで、この地方の山や素朴で忠実な民衆を生涯変わることなく愛した反面、宮廷の官吏や侍従の卑屈な態度や退屈なおしゃべりには嫌悪を感じます。


美術、詩、絵画、音楽に興味を持ち、建築の勉強もしたといわれるルードヴィッヒは、1861年2月2日、ミュンヘンの劇場ではじめて観たリヒヤルト・ワーグナーのオペラ「ローエングリン」にいたく感激します。ワーグナーとの運命的な出会いです。


ワーグナーとの出会いが、さらに若きルードヴィッヒを中世の騎士道物語の世界や芸術の世界にのめり込ませていきます。


1864年3月、ルードヴィッヒは18才半ばでバイエルン国王の座につきますが、父王のかたよった教育方針から、それまで政治には参画しておらず、経験は皆無でした。それでも、王は真剣に仕事をこなそうと努めますが、重要決定事項からはほとんど遠ざけられ、形骸化した存在に過ぎませんでした。


政務に対する興味が薄れて行く一方で、ワーグナーへの想いをさらに深めていきます。ワーグナーを崇拝する国王は、ワーグナーをミュンヘンに迎え最大級のもてなしをし、ワーグナーが要求するものなら際限なくお金をつぎ込みます。しかし、政治に口出しをするようになったワーグナーは、国王の側近たちとの折り合いが悪くなり、ミュンヘンを出て行かざるを得なくなりました。


この事件以来、王はますますミュンヘンの王宮の生活や民衆の万歳の叫びを嫌うようになり、バイエルンの高地や山で自由と幸福を味わう生活に埋没していきます。


身長191cmの美男子の若き国王は、いたるところで大人気であり、熱狂する女性に囲まれます。しかし、いとこでオーストラリア皇帝妃であったエリーザベートとだけは生涯を通じて親交があったものの、国王の異性とのつきあいは少なったといわれます。


エリーザベートの姉妹でいとこにあたるバイエルン王女ゾフィー・シャルロッテと婚約が取り交わされますが、王はこれを突然解消してしまいます。以後、二度と結婚のことを考えることはありませんでした。


プロセインとフランスの戦争が勃発し、政治への嫌気感を一層強めていく王の人間嫌いはますますひどくなり、人前にでることがまれになっていきます。夜、アルプス山麓に馬車やそりを走らせることが多くなり、孤独な王にまつわる伝説やうわさが形成されるようになり、メルヘンの王様とされるようになります。


そして、王は、自分だけの、すべてが美しく悪しきものが入り込む余地のない世界を創ることにのめり込んでいきます。その現われとして、ノイシュヴァンシュタイン城の定礎が置かれ、リンダーホーフ宮が建てられ、ファルケンシュタイン城建設の準備が始まったのです。


王の借金と負債は増大していきました。政府は、医師の鑑定書に基づいて王を精神病とし、摂政に政務を代行させることを決定します。1886年6月8日、グッデン博士を主席とする医師団は、王は精神病者であり、もはや職務を遂行することは不可能だと診断した鑑定書を提出します。


この鑑定書は、今日でも問題視されている勘定書ですが、政府は、その鑑定書に基づいて王を精神病とし、摂政が政務を代行することと決定しました。6月12日にバイエルン政府より派遣された使節団は、その夜、王をノイシュヴァンシュタイン城より連れ出し、およそ60キロ離れたミュンヘンの近郊にあるシュタルンベルク湖のベルク宮へ移します。


翌6月13日、ルードヴィッヒ二世は医師グッデン博士と夜の散歩に出かけますが戻らず、翌日医師とともに湖で水死体となって発見されます。今日まで、二人の死の真相は謎のままとされています。


ノイシュヴァンシュタイン城は、中世の夢物語に登場する城そのものですが、1869年(明治2年)着工のとても新しい城です。


17年の歳月と、バイエルンの財政をも揺るがす巨額の費用をつぎ込み、狂気の沙汰と国民から冷ややかな目で見られながら建てられた白亜の城も、3分の2が未完成のままで、ルードヴィッヒ二世は結婚もせず、謎の死で孤独な41歳の生涯を終えました。


崇拝していたワーグナーを一度も城に招待することなく、ルードヴィッヒ自身、この城に滞在したのは、わずかに172日間の短い期間だったと言われています。


120年近く後の今日、皮肉なことに、ノイシュヴァンシュタイン城は、年間130万人の観光客を集めるバイエルン州最大のドル箱になっています。


【備考】
◆ローエングリン
ケルト神話。聖杯の守護長パルジファルの息子で聖杯の騎士ローエングリンは、白鳥の姿をした天使のひく船に乗ってブラバントへ行き、強引に結婚を迫られて困っていた公爵の娘エルサを救い結婚します。その際、自分の名前や素性を尋ねたり、詮索しないようエルザに約束させます。しかし、疑念を吹き込まれたエルサは約束を破って「あなたは何者か・・・」とたずねてしまい、ローエングリンは去っていきます。エルザは悲しみのあまり息絶えます。とてもロマンチックなこの物語は、19世紀になって、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』としてよみがえります。


◆本レポートは、ノイシュヴァンシュタイン城内の売店で購入した「王城 ノイシュヴァンシュタイン」という小冊子(日本語版)などを参考にしました。


◆ノイシュヴァンシュタイン城の公式ホームページ(英語版)は、下記のアドレスから入れます。ルードヴィッヒ二世の肖像画、幾つかの城内の写真などを見ることができます。
 → http://www.neuschwanstein.com/english/index.htm



2004.05.16  
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