レポート | ・島津斉彬と池田斉敏 |
− 島津斉彬と池田斉敏 −
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NHK大河ドラマ『篤姫』で高橋英樹さん演じる第11代薩摩藩主・島津斉彬は、薩摩藩の富国強兵に成功し、西郷隆盛ら、のちに幕末で活躍する人材を育て上げた、幕末の名君の一人として知られています。 篤姫を将軍徳川家定の正室として大奥に送るなどして、次期将軍に一橋慶喜を擁立しますが、紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す大老・井伊直弼らの派に敗れ、安政5年(1858年)7月、発病により享年50歳で急死。 島津斉彬には、同母弟の池田斉敏(なりとし)と異母弟の島津久光の二人の弟がいました。久光とは11代藩主の座を争う形(お由羅騒動)になりましたが、個人的関係は一貫して悪くなかったと言われます。斉彬亡き後、薩摩藩の最高権力を掌握した久光は、小松帯刀を側近に置き、大久保利通ら中下級藩士を登用(但し、西郷隆盛とは終世確執があった)。その運動は、亡兄斉彬の遺志を継いたものだったと言われます。 *** 岡山在住で岡山後楽園の専任ガイドをされているモーリーさんから、次のようなお便りを頂きました。 〜 薩摩と備前は遠い国どおしですが、時につながりがあります。一つ目は豊臣の時代の宇喜多秀家が関ヶ原後、島津家に一時かくまわれていたことがありました。岡山人は案外秀家びいきが多いですから、未だにそのことを感謝しているムキがあります。 二つ目はまさに篤姫様の時代の話です。備前池田家の11代藩主は島津からの養子で、斉敏(なりとし)公です。島津斉彬公の実の弟君でした。父君斉興は隠居後、息子に会いに後楽園に立ち寄ったという記録や、斉敏が若くして無くなったときには兄斉彬はひどく悲しみ落ち込んだという記録が残されています。 斉敏公は、若くして池田家の藩政の歴史を学び、儒教の精神で領民と共に生きて来たことを知り感動します。その精神を目の当たりにしたいということで、周の時代の『井田(せいでん)』の 100分の一のミニチュアを後楽園に造りました。備前藩では井田を本当に造っていて今も残っています。 『井田』は、周の時代の理想の税法で、8軒の農家で9枚の田を作り、真ん中を公田とし、真ん中の収穫を税として納める方法です。聡明な斉敏公が長生きされたなら、あの幕末はどうなったのかしらと、ふと思います。〜(以上、モーリーさんのお便り) 斉敏は、文化8年(1811年)に第10代薩摩藩主・島津斉興(なりおき)の次男とし江戸に生まれます。実母の弥姫(いよひめ、島津周子ともいわれる)は、鳥取池田家6代藩主・池田治道(はるみち)の娘で、岡山藩池田家は、母の実家の親戚筋にあたります。 その岡山藩第6代藩主・池田斉政の実子であった池田斉輝が23歳で早世すると、斉敏は池田斉政の養嗣子に迎えられ、斉政の隠居により家督を継いで、第7代藩主岡山藩主となりました。 池田斉敏が藩主であった期間は全国的に飢饉に見舞われた時期でした。飢饉に苦しむ民百姓を助けるために民政に尽力した治世に努めるなど、名君として期待されましたが、天保13年(1842年)1月30日に、病により急死。32歳の若さでした。 *** 大河ドラマの中で、宮崎あおいさん演じる於一(のちの篤姫)が『なぜ自分を養女にしたいのか』と斉彬に問いかけると、しばらく考えた斉彬が『於一が自分の母にとても似ているからだ』と答える場面がありました(第6回『女の道』)。 斉彬と斉敏の実母、弥姫は、寛政4年(1792年)に、江戸の鳥取藩邸で生れますが、母・生姫(いくひめ)は、弥姫を出産後そのまま死去。その後、弥姫は、薩摩藩主・島津斉興と婚約、池田家から島津家へ輿入れしますが、嫁入り道具として『四書五経』『左伝』『史記』『漢箱』を大量に持ち入り、薩摩藩の奥女中や家臣らを驚かせたといわれます[1]。 斉彬と斉敏のほかに、ニ男一女をもうけますが、ニ男子はいずれも早世。弥姫はかなりの才女で、薩摩藩の家臣から『賢夫人』と称され、尊敬されたといわれます。子育ても乳母に任せず、自ら母乳を与え、厳しく愛情をもって育て、得意の『左伝』『史記』『四書五経』を子供たちに自ら説いて聞かせていたといわれます[2]。 人格形成に母・弥姫の影響を受けて成長し、のちに『名君』と称され、家臣、領民から尊敬された斉彬公と斉敏公でした。 【参考にしたサイト】 [1]池田斉敏:フリー百科事典『ウィキペディア』 [2]弥姫:フリー百科事典『ウィキペディア』 【備考】 ・備前市指定史跡『井田跡(せいでんあと)』については、下記の旅行記があります。 ■旅行記 ・井田跡(せいでんあと) − 岡山県備前市 |
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2008.06.25 | ||||
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