レポート | ・永山盛弘(弥一郎) |
− 永山盛弘(弥一郎) −
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(1) 屯田兵制度の育ての親として知られ、鹿児島に帰ることなく北海道に身を埋めた永山武四郎(1837〜1904年、第2代北海道庁長官、屯田兵司令官、第7師団長他を歴任)は、鹿児島よりむしろ北海道でその名の知られた人です。その永山武四郎の旧私邸を札幌に訪ねたのは、2012年7月のことでした。 永山武四郎について語れば、もう一人言及せずにおれないのが、同姓で、同じく薩摩藩士、明治の軍人だった永山盛弘(1838〜1877年、通称を弥一郎)のことです。身を以て北方経営に当たらんと志願して開拓使出仕に応じ、将来を嘱望されましたが、西南戦争の出兵に異を唱えながらも、西南戦争に参戦し壮絶な戦死を遂げていった人でした。まず、若林滋・編著『北の礎−屯田兵開拓の真相−』(中西出版、2005年5月発行)から文章を引用させて頂きます。 ”明治2年(1869年)創設の開拓使には薩摩出身者が多く、西郷の腹心が幹部を占めていた。明治8年でみると、長官黒田清隆、中判官堀基、幹事調所広丈、安田定則、永山盛弘など七等出仕以上の幹部26名中薩摩出身が11名を数え、開拓使は薩摩閥といわれた。” ”(西南戦争屯田兵遠征軍の)大隊長は本来なら永山(武四郎)少佐ではなく、同姓の永山盛弘准陸軍中佐が任命されるべきだった。が、盛弘は前年、父親の病気を理由に薩摩に帰り、西郷軍の指揮官として反乱に加わっていた。盛弘は初めは立起に慎重だったが、桐野利秋の強い懇請でやむなく立ち上がったとされる。武四郎は盛弘が屯田兵創設で苦労を共にした、同郷の自分に相談もなく帰国したことが悔しくて官舎の床柱を軍刀で滅多切りにしたと「琴似屯田兵百年史」にある。” 永山盛弘は、永山休悦の第1子として現在の鹿児島市に生まれました。名は盛弘、通称を弥一郎。勤王の志を抱き、これに奔走。文久2年(1862年)、有馬新七らに従って京都に上り、挙兵に荷担して失敗しましたが(寺田屋騒動)、年少であるという理由で処罰を免れました。 慶応3年(1867年)、京都詰となり、陸軍で教練に励む一方で、中村半次郎(のちの桐野利秋)らと市中見回りをしました。この年、黒田了介と共に坂本龍馬の元を訪れています。 戊辰戦争では、小隊の監軍として鳥羽・伏見の戦いに参戦。白河攻防戦、会津若松城への進撃で勇戦しました。明治2年(1869年)に鹿児島常備隊がつくられると、大隊の教導となり、明治4年に藩が御親兵を派遣した際には、西郷隆盛に従って上京し、陸軍少佐に任じられました。 しかし、ロシアの東方進出を憂えた永山は、身を以て北方経営に当たらんと考え、志願して開拓使出仕に応じ、北海道に赴きました。明治6年(1873年)、征韓論が破裂して西郷が下野し、近衛の将校が大挙して退職しますが、永山は彼らと行動をともにせず、同年に黒田清隆北海道開拓次官の下で右大臣岩倉具視に提出された屯田兵創設における建白書に、永山武四郎、時任為基、安田定則とともに連名しています。 しかし、政府が千島樺太交換条約を締結したことに憤激して、職を辞して鹿児島へ帰郷。永山の考え方は必ずしも私学校党と同じではなく、政府在官者を無能とはせず、大久保利通や川路利良らに対し一定の評価をし、在官者は日々進歩していると説き、私学校党に与(くみ)しませんでした。 この当時私学校派が幅を利かせていた薩摩において新政府を擁護することはかなりの勇気のいることでしたが、過去の抜群の軍功と勇敢さによって、批判を受けることはなかったとされます。 出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では、大軍を率いての上京については反対の態度をとります。永山の言い分は、西郷・桐野・篠原国幹の三将が数名の供をつれて上京し政府に直に問罪すべきというようなものでした。 しかし、西郷の身を案ずる意見が強く、永山のこの言い分は退けられ、結果として西郷の率兵上京が決定されました。しかし、永山は反対の意思を崩さず、出兵に応じませんでした。これに対し最初、辺見十郎太が説得しましたが不調に終わり、仲が良かった桐野利秋の熱心な説得でようやく同意。結果、永山は三番大隊指揮長となって、10箇小隊約2000名を率いることになりました。
(2) 桐野利秋の熱心な説得でようやく西南戦争(西南の役)への参戦に同意し、三番大隊指揮長として10箇小隊約2000名を率いることになった永山盛弘(通称を弥一郎)でしたが、熊本城攻囲戦に際しては、最も遅れて到着し、割り込む隙がなかったので、永山の部隊の多くは予備隊として後詰めをしました。 明治10年(1877年)2月24日、官軍の第一旅団・第二旅団が南関に着くと、池上四郎に熊本攻囲軍の指揮をまかせ、政府軍を挟撃べく、桐野が山鹿、篠原が田原、村田新八・別府晋介が木留(熊本市内)に出張本営を設け、永山は政府軍上陸に備えて海岸線に出張本営を設けました。 官軍南下軍は2月の高瀬の戦い以来目立った成果を収めることができず、田原坂をなかなか突破できない状況打開のため、政府は新たな軍の編成に取りかかります。これが、後に衝背軍と呼ばれる熊本南部沿岸(八代市日奈久)から薩軍の背後を衝く部隊の始まりでした。かつて永山の上司だった黒田清隆中将が参軍となり、上陸衝背軍の指揮をとりました。 衝背軍上陸の報を受けた薩軍は南下軍を編成し、永山が迎撃軍の司令官に志願し川尻(熊本市川尻町)から進発しました。3月26日、小川(現宇城市)で激戦が始まり、松橋(同)まで後退するも31日には松橋も陥落。4月1日には宇土の戦いにも敗北し、緑川まで後退。 永山は、砲弾の破片を浴びて足腰に重傷を負い、熊本の二本木本営に護送されますが、翌日、苦戦を聞いて『負けたら二度と諸君らとは見えぬ』との決意を周囲に告げて、止めるのも聞かず人力車に乗って御船(みふね)へと出陣、大警視川路利良少将の別働第三旅団との戦いの指揮をとりました。 御船では逆さに置いた酒樽に腰掛け、長刀を振るい、兵たちに『今日こそが貴様らの死ぬ日である。退いてだらだらと今日は負けた負けたと語り合う日ではない。矢尽き刀折れるまで戦い、みな死ね』と叱咤激励したといわれます。 しかし、敗勢いかんともなしがたく戦線は完全に崩壊、四面皆敵という状況に陥ったので、近くの農家の老婆に数百円を渡し家を買い取って、自ら火を付け自刃しました。撤退を勧めに来た荷駄掛の税所左一郎に介錯を頼んだともいわれています(当時の百円というのは、立派な屋敷を一軒新築できるというほどの大金でした)。 享年40。明治10年(1877年)4月12日のことでした。永山武四郎を大隊長とする 600数十名の屯田兵の遠征隊が4月23日、百貫石港(熊本市)に上陸しますが、このときすでに、永山盛弘はこの世にはいなかったわけです。 弥一郎(盛弘)は戦時、和服の下にチョッキとズボンを着て、戦闘が始まると和服を脱ぎ捨て、短刀を携え身軽になって戦ったことで有名でした。『西南記伝』に『弥一郎、人と為り、沈厚にして寡黙、剛直にして清廉、裁断に長ず、而も其人に接する、穏和にして義に富む、故を以て、婦人小児と雖も、皆弥一郎に親まざるは無かりしと云ふ』とあるように、もともと婦人・子供にさえ親しまれる穏和な人で、文事にも秀でていたといわれます。 弥一郎が自刃して壮絶な死を遂げた御船(熊本県上益城郡御船町)は、鹿児島県の著者の自宅から高速道路を使って2時間余り。1月下旬の休日、ほぼ一日がかりで出かけてきました。御船の市街地にはいると中心部の国道 445号沿いに御船クリニックという病院があって、その駐車場に『薩将永山盛弘戦没の地』という木製の碑が建っていました。 御船の戦いは両軍で数百の戦死者を出し、ために緑川は血で染まったといわれます。御船クリニックのすぐ裏手は緑川の支流・御船川の流れになっています。その寒々とした冬枯れの河川敷を歩きながら、弥一郎のことを偲んでみると、前年(2012年)の7月に訪れた札幌の道庁赤れんが(北海道庁旧本庁舎)などの佇まいが思い出されてくるのでした。 【参考図書およびサイト】 (1)若林滋・編著『北の礎−屯田兵開拓の真相−』、中西出版、2005年5月発行 (2)永山弥一郎 - Wikipedia (3)西南戦争 - Wikipedia
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2013.02.05 | ||||
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