コラム  ・麦秋   
− 麦秋 −
夏に秋といえば、麦の秋に触れないわけにはいきません。『麦の秋』あるいは『麦秋(ばくしゅう)』は、夏の季語で、麦が熟する初夏のころをいい、5〜6月にあたる。『百日の蒔き期に三日の旬』というように麦刈りの時期は梅雨を控えて短く、農家の人たちは忙しく立ち働かなければならない。と合本俳句歳時記(角川書店)にあります。
 
昭和24年生まれの本メルマガの著者が小学校低学年の頃といえば、昭和30年代の初め。南九州、北薩摩地方でも、ほとんどの農家が米の裏作として麦(小麦)を植えていました。
 
麦作の畝を作る農具に『まんが』(馬鍬)というのがありました。木の板2枚を蝶つがいでつないだもので、裏面に櫛状に刃がついていて、犂(すき)を使って田起こしした畝の上に置いて牛に牽かせて耕すのです。ちょうど子供がかがんで乗れる大きさで、子供が乗るとほどよい重さが加わって耕し易いので、父によく乗せてもらったものでした。これは楽しいものでしたが、かりだされて手伝う麦踏は気の進まないもの
でした。
 
5月の末から6月になると、村の多くの田んぼが黄金色に輝き、文字通り秋の雰囲気になりました。収穫した小麦は、ほとんどが自家用に消費されていたと思います。どの農家でも味噌、醤油が自家製で、その原料に小麦を使い、麦ごはんも食べ、農作業の合間のおやつは、小豆のあんこを小麦粉の皮でくるんでゆでた小麦団子が御馳走でした。
 
小麦に限らず、大豆や小豆も植えていましたし、菜種油も自家製だったような記憶があります。自給自足が基本の生活でした。昭和30年代の半ばから後半になると、耕運機や脱穀機が普及してきました。機械化によって農作業が楽になったはずなのに、この頃から、麦や大豆、小豆などがだんだん作られなくなっていきました。
 
農業機械に加えて、テレビや電気洗濯機、冷蔵庫など電化製品が普及してくるようになると、地方の農家でも現金収入が必要になってきました。時は高度成長の走り。米の裏作をやめ、一家の大黒柱は、現金収入を求めて都会に出稼ぎに出たり、あるいは兼業に就くようになりました。それ以後、麦作が行われることはなく、南九州では、麦の秋は懐かしい風景になってしまいました。
 
一方、この時期にJR九州長崎本線や日豊本線で旅すると、佐賀平野や大分県中津辺りの沿線一帯には、一面麦秋の風景が広がります。子供の頃の思い出が旅情を一層掻き立てます。
 
       麦秋や車窓に薄き我が影   ワシモ
       麦秋や子ら来たといふ置土産 
 

2009.05.26  
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