レポート | ・ムチャ加那ものがたり |
− ムチャ加那ものがたり −
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『島唄(しまうた)』といえば、最近では奄美諸島の民謡と琉球民謡との総称として、あるいは、琉球民謡の別名としても使用されるようになってきていますが、本来は、三味線(蛇皮線)の伴奏とともに歌われることが多い奄美諸島の民謡のことです。 島唄の島は、四方を海に囲まれた島の意味ではなく、ある限られた地域という意味の『シマ』であり、したがって『島唄』とは、各集落(シマ)ごとの唄という意味です。島唄は当然、方言で歌われますが、集落ごとにそのオリジナルの民謡を持っていることが多く、また広く知られている唄でも、集落ごとに異なった曲調や歌詞のバリエーションを持つといわれます(以上、[1][2]を参考)。 船大工の職業を持ちながら島唄界第一人者の坪山豊さん(奄美大島奄美市在住)、奄美大島瀬戸内町出身の元ちとせ(はじめちとせ)さん、奄美市出身の中孝介(あたりこうすけ)さん、奄美大島出身で佐賀県在住の RIKKI(りっき、中野律紀)さんなどが、島唄歌手として活躍されています。 平成2年度(1990年度)第13回日本民謡大賞全国大会において RIKKIさんが歌い日本一に輝いたのが『むちゃ加那節(うらとみ節)』という島唄でした。この唄は、母娘二代にわたる壮絶な人生ドラマの伝説から誕生した島唄屈指の名曲だといわれています。今回のレポートは、この島唄にまつわる、美し過ぎたゆえに非業の死を遂げた母娘の物語についてです。 物語に登場する奄美大島加計呂麻島(かけろまじま)の生間(いけんま)、喜界島の小野津、奄美大島住用の青久(あおく)の場所をまず地図で確認しましょう。 ・地図で場所を確認する 奄美諸島は、文正元年(1466年)琉球王国の侵攻を受け約 150年間その統治下にありましたが、慶長14年(1609年)の薩摩藩琉球侵攻に伴い、琉球から分割されて薩摩藩に属しました。薩摩藩の統治下に入ると、奄美各地には検地の竿入れをつかさどる竿入奉行が派遣され、島の隅々まで検地が行われました。竿入奉行をつとめる代官は島民からソウチドン(竿打殿)と呼ばれ神のように崇められ、その権威は非常なものでした。 大島海峡をはさんで奄美大島南岸と向かい合っている加計呂麻島(かけろまじま)の生間(いけんま)に、島一番の美人と聞こえたウラトミ(浦富)という18歳の美しい娘がいました。その美しさが目に止まると、代官はウラトミに現地妻(島刀自)になるよう要請してきました。 しかし、ウラトミがこれをきっぱり拒否すると、代官はウラトミ一家はもちろん、親族や集落にまで高い税を課すなど陰湿な仕打ちを加えてきました。苦慮した両親は、集落に迷惑がかからないようウラトミを放逐することを決心し、ある真夜中、当分の食料と三味線を積み込んだ小舟にウラトミを無理やり乗せ、泣く泣く大海原に向けて突き流したのでした。 南風(ハエ)と黒潮のまにまに幾日かの漂流を続けたあげくウラトミが流れ着いたのが、喜界島の北端小野津の十柱(とばや)という海岸でした。ウラトミは、小野津の人たちに助けられ、その晩、村人たちに島唄と三味線を披露しますが、その宴会の席で一人の島役人と杯を交わし見初めあいました。 その男性は代々島役人を勤める由緒ある家の養子で、すでに子供もありましたが、家に帰ると宴会の様子を聞きつけて悋気(りんき)した奥さんに恐ろしい剣幕でどなられ、家を追い出されてしまいます。 ウラトミと島役人の男性は、荒れた山のアダンを伐り倒して山羊小屋のような小屋を建てて世帯を持ち始めました。村の男たちの妬みや中傷、干渉などがありましたが、二人は強い愛情で助け合い何とか乗り越え、やがて5人の子宝に恵まれました。 5人の娘は母に似てみんな美人で、とりわけ次女の『ムチャ加那』は、歳とともに母にも勝る美貌の持ち主に成長します。そこにまた、村の嫉妬が芽生え始めたのでした。村の青年の心がムチャ加那に奪われ始めると、村の娘たちはムチャ加那に幾度となく悪だくみを仕掛けてきました。 ある日、娘たちはムチャ加那をアオサ(海に生える青海苔)採りに誘います。そして、無心にアオサを採っているムチャ加那を海に突き落としたのでした。三日三晩の必死の捜索のすえ、両親が海岸に発見したのは変わり果てた無残な姿のムチャ加那の死体でした。泣く泣く両親は、ムチャ加那の亡骸を小高い丘の上まで運び、そこに穴を掘って葬りました。 そのとき、杖(つえ)にしていたガジュマルの枝を逆さにして卒塔婆(そとば、死者を埋めた場所に立てる標示塔・墓標)代わりに立てたのがやがて芽を吹き、大きく成長して、十本の柱のような木髭を垂らすガジュマルの大樹になったといわれます。 母のウラトミは、この事件の後、ムチャ加那のあとを追って入水自殺したといわれます。ウラトミの墓は、喜界島小野津の『ムチャ加那公園』の崖ぶちにありますが、ムチャ加那の墓は喜界島にはないそうです。一説によるとムチャ加那の死体は、奄美大島の住用(旧住用村)の青久(あおく)に漂着したといわれ、青久には『ムチャ加那の墓』が現存しているそうです。 『むちゃ加那節(うらとみ節)』 ハレイー喜界(ききゃ)やィ小野津(うのでぃ)ぬョ ヤーレー十柱(とぅばや) (囃子)スラヨイヨイ 十柱(とぅばや)むちゃ加那ヨイ (囃子)スラヨイヨイ ハーレー十柱(とぅばや)〜むちゃ加那ヨイ (囃子)ハーレー十柱 むちゃ加那ヨイ ハレイー青海苔(あおさぬり)はぎが ヤーレー行(い)もろ (囃子)スラヨイヨイ 行もろやむちゃ加那ヨイ (囃子)スラヨイヨイ ハーレー行もろや むちゃ加那ヨイ 貴島康男さんの三味線・唄、当原ミツヨさんの囃子で『むちゃ加那節』を聴いてみましょう。 【備考】 このレポートは、加計呂麻島の生間で現地の方に聞いた話しをもとに、下記のサイトなどを参考にしながら書きました。 [1]奄美の小箱・写真で訪ねる島唄の風景 [2]フリー百科事典『ウィキペディア』 [3]をなり神(W) [4]島唄今昔-第十一話 [5]『うらとみ(ヒギャヌマスカナー)・ムチャカナー母娘の物語』 下記の旅行記があります。 ■旅行記 ・喜界島 − 鹿児島県大島郡喜界町 → http://washimo-web.jp/Trip/Kikai/kikai.htm |
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2009.03.08 |
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