コラム  ・ものづくりへの憧憬とわが職業人生   
− ものづくりへの憧憬とわが職業人生 −
鹿児島県の北薩摩地方の寒村の農家の長男として生まれ育った著者は、農家の後継ぎという立場にありながら工学の道に進学し、卒業後関西の鉄鋼メーカーに就職したのを皮切りに、40年にわたってものづくりとものづくりに携わる後進の育成(職業能力開発)の仕事に従事してきた。
 
そして、満65歳になった2014年度の末日、川内職業能力開発短期大学校の常勤嘱託の任務を終える。いわゆる第二の定年である。今になってみれば、他の仕事、例えば、生まれ育った境遇によりそぐった、農政だとか農業技術だとかに関わる職業人生だってあったのかも知れないなどと思うことがある。
 
著者をあえてものづくりの道に突き動かしたものは、子供の頃に感じた“ものづくりへの感動”だった。昭和30年代(1955年代)の小学校低学年の頃、集落の入口にあった小さな精米所のお兄さん(専門学校生か大学生だったのだろう)は、線が複雑に描き込まれた配線図とにらめっこしながら、真空管式ラジオを組み立てていた。
 
バリコンという変な格好をしたものを回すと人の話し声が聞こえ出す。すごいなと思った。そして、それまで牛に馬鍬(まんが)を引かせて農耕をしていたわが家にも耕運機が入ってきた。橙色のクボタの耕運機だった。毎朝、目が覚めるやいなや、胸をわくわくさせながら納屋に真新しい耕運機を見に行って、なぜか誇らしく感じたもの
だった。
 
隣の鶴田町(現在は同じさつま町)で、重力式コンクリートダムとして九州最大の規模を誇る鶴田ダムが着工したのは、昭和34年(1959年)だから、著者10歳のときだった。6年の工期を経て昭和40年(1965年)に竣工している。寒村がにわかに活気づき、工事が進むにつれて多く人が工事の仕事に出るようになり、経済的にも潤った。
 
手伝いで畑仕事に行くと丘を越えて発破音が聞こえてくる。実際に見るダム工事の現場は壮大であった。すなわち、団塊の世代の日常には、ものづくりに夢やロマンを感じさせる物や出来事が満ち溢れていたのである。ひるがえって、昨今を見るに、理工系離れが叫ばれて久しい。つくるよりむしろ使うことに興味が持たれているようである。子供たちにものをつくる感動を覚える機会をつくってあげたいものだ。
 
以上、川内職業能力開発短期大学校紀要・第11号(2015年8月)、『設計・製図教育の変遷と普遍的要点− 設計・製図教育温故知新 −』より抜粋。

2016.6.22
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