コラム  ・みちのく見聞記   
− みちのく見聞記 −
2013年4月18日〜22日に出かけた東北へのツアー旅行は、桜前線を追っかけての旅でしたが、今年は北上が速いと思われた前線がその後停滞してしまい、桜は見ることができませんでした。それでもたいへん有意義な旅行でした。見聞きして印象に残ったお話しなどを取り上げてみました。
 
1)ずんだ
 
『ずんだ』って、ご存知でしょうか?『このずんだれが!』『ズボンがずんだれた』などと、九州地方でいう方言の『ずんだれ』(だらしがない、締まりがない)とは全く関係ありません。
 
『ずんだ』は、枝豆(未成熟な大豆)またはそら豆をすりつぶして作る緑色のペーストのことで、東北地方の伝統的な味です。東北のお土産屋には、各種ずんだスイーツを初め、いろんなお菓子や応用商品が賑やかに並びます。
 
東北のツアー旅行から帰って1ヶ月が過ぎたある日、そろそろ旅行記を書かないと思って、パソコンに向かっていると、連れ合いが、お土産の余りものが残っていたといって『ずんだキャラメル』を持ってきてくれました。
  
ずんだキャラメル
 
東北限定とあります。そして、”キャラメル”といえば、団塊の世代の者にはたまらない。子供の頃のお菓子は、キャラメル(グリコ、カバヤ)しかなかったから・・・。上着の内ポケットに入れ忘れていた千円札を見つけたときの嬉しさでした。
 
(2)ねぶた
 
4月の東北ツアーでは、あの巨大な人形灯籠が街を練り歩く『ねぶた』を見れなかったのは残念でしたが、鹿児島では、知覧と、本メルマガの著者の住むさつま町で見れるので楽しみにしています。
 
暑い夏の時期は、農作業で体力を消耗し、急激な眠気に襲われます。昔の人は、眠っている隙に病魔が入り込むと考え、川や海に灯籠を流し、睡魔を退治する行事を行ないました。この行事は、『ねぶり(=眠り)流し』や『ねぶた流し』と呼ばれ、これが『ねぶた』の語源になっているそうです。
 
文禄2年(1593年)、豊臣秀吉は諸侯に対し、七月の盂蘭盆(うらぼんえ、現在のお盆)に出し物を出すよう命じました。当時、『成り上がりの田舎者』として蔑視を受けていた弘前藩の初代藩主・津軽為信は、今こそ意地をみせようと、地元津軽に大灯籠を作らせ、京の都を練り歩かせました。
 
ねぶた絵(青森ロイヤルホテルで撮影)
 
『津軽の大灯籠』と称されたこの出し物は、京都の民を驚嘆させました。このことを知った津軽の民は、祝いのために灯籠を持って津軽城下を練り歩きました。これがやがて年中行事として定着し、ねぶた祭の起源となったともいわれているそうです。
 
さつま町では、旧鶴田町(現さつま町)と青森県鶴田町が友好交流協定を締結していたよしみで『青森ねぶた』1基が寄贈され、夏祭り(8月の第一日曜日)の夜に巡行されます。今年も見れるのを楽しみにしています。実行委員会の皆さん、宜しくお願い致します。
 
(3)塩一升米二升、塩一升米一升
 
『やませ』は『やませかぜ』(山背風)の略で、本来は、山を越えて吹いてくる風のことを意味します。たとえば、山陰地方では山の方から吹く冬の寒風をいいますが、現在ではもっぱら、東北地方の中部および北部の太平洋側(特に三陸地方)で、梅雨期から盛夏期にかけて吹く東風(こち)のことを『やませ』といいます。
 
オホーツク海気団から吹くこの東風は、冷涼で湿潤な風であり、海上を進む間に雲や霧を発生させ、太平洋側の陸上に到達すると、日照時間の減少や気温の低下をもたらします。岩手県の北上川流域はのびやかな平野が広がる米作地帯になっていますが、やませの風下に当たるため何度となく冷害・凶作に見舞われてきました。
 
しかし、この東風は、脊梁山脈(せきりょうさんみゃく、その地域の背骨に相当する大山脈)である奥羽山脈などを越えるとフェーン現象を発生させるため、日本海側では太平洋側とは逆に日照時間の増大と気温上昇をもたらします。
 
したがって、歴史上も出羽国(秋田県と山形県)は豊作、陸奥国は凶作という場合があり、秋田県田沢湖町の民謡・生保内節(おぼないぶし)では、”吹けや生保内東風〜♪ 七日も八日もハイハイ吹けば宝風 ノオ稲みのる〜♪”と、東風が『宝風』として唄われています。
 
つまり、米が豊富にとれる出羽地方では、塩一升を米二升と交換していましたが、米がより貴重な陸奥地方では、米一升につき塩一升が交換されていたのでした。
 
(4)温水路
 
青森から盛岡市内への帰り、東北自動車道を南下して松尾八幡平IC・西根IC間を走行中、松川に差し掛かる手前でバスガイドさんが、左手にちらっとですが『松川温水路』が見えますと案内してくれました。『温水路』とは初めて聞く言葉でした。
 
この地域は、岩手山をはじめとして、黒倉山、三ツ石山、八幡平と裏岩手の連邦に囲まれているため、付近を流れる松川の水温は夏季でも低く、稲作に著しい影響を与えていました。そこで、川の水を取り込んで水路に流し、太陽の光や空気の持つ熱を水に吸収させて水温を上げようというのが温水路です。いわば、天然の太陽光温水装置です。
 
水面積をできるだけ高め、滞留時間を出来るだけ長くするため、温水路は幅が広く、随所に落差工と呼ばれる段差を設けて勾配が緩やかになるように設計されています。落差工では水が滝となって落ちる際に生じる摩擦熱で水が温まります。
 
松川温水路は、幅 20m、総延長約4kmで、約80個もの落差工が設けられ、3℃弱の水温上昇を確保しているそうです。松川温水路のほかに、昭和2年(1927年)に完成した日本初の温水路である上郷温水路群(鳥海山のふもと、秋田県にかほ市象潟町上郷地区)や浅間山温水路(長野県軽井沢町追分)などの温水路があるそうです。
 
(5)医者っこ、先生っこ、
 
『嫁』が『嫁っこ』、『酒』が『酒っこ』というふうに、岩手弁(の法則)では、名詞に『っこ』をつけてます。犬っこ、猫っこ、馬っこ、わらし(童)っこ、お茶っこ、飴っこ、などと、『っこ』をつけると可愛いらしい感じがしますね。くしゃみまで『っこ』をつけて、『あっ、くしゃみっこが!』などと。
 
そして、『っこ』がつくと、〜がの格助詞『が』が省略された表現になります。たとえば、『花が咲いている』が『花っこ咲いでだ』となり、『かわらすずめっこ、となりのえさ、とんできたず』(せきれいが、隣の家に飛んできたそうだよ)などとなるのだそうです。
 
このように、何でもかんでも『っこ』を付けますが、医者と先生には付けてはならないそうです。『医者っこ』や『先生っこ』という表現は、可愛いというより、やぶ医者、頼りない先生というニュアンスになってしまうからです。
 
(6)わんこそば
 
『わんこそば』は、岩手県(花巻、盛岡)に伝わるそば(蕎麦)の食べ方のスタイルの一つです。一口大のそばをお椀に入れ、客がそれを食べ終わるたびに、給仕がそのお椀に次々とそばを入れ続けます。
 
時は江戸時代前期の慶長、当時の南部家27代目当主、南部利直公が江戸に向かう際に花巻に立ち寄られ、食事を所望された。恐る恐る差し出されたのが椀に盛られた一口大のそばでした。
 
お殿様に対して市民と同じ丼で差し上げることは失礼と思い、まず漆器のお椀に一口だけのそばを試しに出したのでしたが、利直公は『これをうまい』と何度もお代わりになった。これが『わんこそば』の始まりだそうです。
 
明治時代になり、花巻市の蕎麦屋・大畠家が市民にもわんこそばを振る舞うようになり、お殿様の召上がったわんこそばは市民の人気になりました。わんこそばの定義は(1)わんこ(お椀)で食べる、(2)給仕がつく、(3)温かいそばであることだそうです。
 
わんこそば大会、いわゆるわんこそばの大食い・早食い競争のコツは、(1)空気を吸わないようにする、(2)なるべく麺つゆを飲まないようにする、(3)ただし、そばに飽きないように、適度に薬味を合わせて食べる、(4)テンポよく食べ続けることなどだそうです
(わんこそば − ウィキペディアを参照)
 

2013.07.16 
あなたは累計
人目の訪問者です。
 − Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.−