レポート | ・薪(まき)争い |
− 薪(まき)争い −
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今、石油の供給がストップしたら経済活動のみならず私たちの日常生活まで立ち行かなくなります。石油の枯渇は人類の存亡に関わるたいへんクリティカルな問題ですが、薪(まき)が燃料の主力だった時代においてもエネルギ枯渇の問題は同様でした。 たとえば、製塩は大量の燃料を必要とすることから、製塩業にとって燃料用薪の供給源となる里山(塩木山と呼ばれた)の確保は、死活の問題でした。そのため、8世紀後半から東大寺や西大寺などの大寺院の荘園として塩木山が存在していたそうです。また、近世になると山陽地方などにおいて、製塩業向けに燃料用薪販売が盛んになりました[1]。 製塩業の他にも、踏鞴(たたら)製鉄用の燃料や陶磁器焼成のための燃料として薪は大量に消費され、森林再生速度を超えた森林伐採のために、森林資源が逼迫(ひっぱく)し、薪の確保をめぐって争いになることもありました。 江戸時代の元禄8年(1695年)、塩田の釜焚きのため大量の薪が必要だった赤穂では、入会権をめぐって尾崎村と坂越村で山境争論が勃発。坂越村が赤穂藩に吟味願いを出し、争いは文化6年(1809年)の和解まで1世紀以上にわたって続きました。当時の境界を示す土塁・石塁が今も現存するそうです[2]。 今年(2010年)も有田(佐賀県西松浦郡有田町)では、4月29日〜5月5日のゴールデンウィーク中、有田陶器市が開かれ、期間中 110万人の陶磁器ファンが押し寄せる賑わいだったようです。 有田の陶器市があまりに有名で盛大なので、その陰に隠れている感が否めないのが、いずれも県境をまたいで有田の隣町である長崎県佐世保市の三川内(みかわうち)と長崎県東彼杵(ひがしそのぎ)郡の波佐見(はさみ)でしょう。三川内は、藩窯として平戸藩の手厚い庇護のもとに、採算を考えずひたすら高級品を求め作り続けてきた窯場でした。 → 有田焼、三川内焼、波佐見焼の場所を地図で確認する 一方、波佐見では、大村藩が大衆向け陶磁器を奨励し、江戸時代から連房式登窯で多量生産をしてきました。著名な産地である有田の陰に隠れていますが、当時から染付磁器の生産量は日本一であったといわれ、18世紀以降の江戸時代の遺跡から出土する磁器は、その大部分が波佐見焼であると推察されています[3]。 波佐見焼が大量生産されるのに伴い、有田・三川内との燃料用薪をめぐる争いが激しくなっていきました。有田焼の佐賀藩、三川内焼の平戸藩、波佐見焼の大村藩の3つの藩が接する幕の頭(まくのとう)と呼ぶ山では、互いに領地を侵して薪を盗んでくることが日常的となり、山の中で乱闘・殺し合いも起きる有様だったそうです[3]。 そこで、境界に石を置いたり(境石)、松を植えたり(境松)して目印にしましたが、石は崩れ、松は枯れるというので、寛保2年(1742年)、高さ 2.15m、幅0.3mの石碑が建てられ、三藩領境を示す印とされました。この石碑は、三領石(さんりょうせき)と呼ばれ、今も現存しています[4]。 『薪争い』は、今日でいえば、各国同士の石油利権争いということになるでしょう。燃料用薪の枯渇の問題は、石炭・石油の出現によってクリアされ、昔話として済まされているわけですが、石油エネルギー枯渇の問題はどうクリアされるのでしょうか? 【参考資料】 [1]里山 - Wikipedia [2]赤穂民報|江戸時代の山境争い遺跡を見学 [3]波佐見焼 - Wikipedia [4]波佐見の紹介(文化財・史跡) |
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2010.06.02 | ||||
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