レポート  ・九州征伐と黒田官兵衛   
 
− 九州征伐と黒田官兵衛 −
来年(2014年)のNHK大河ドラマは『軍師官兵衛』(主役・岡田准一)です。豊臣秀吉に軍事参謀として仕えた黒田官兵衛の活躍は、そのまま秀吉の天下取りと重なって行きます。秀吉の九州征伐における一番の功労者として、豊前国(福岡県東部から大分県北部)の6郡およそ12万石を賜り、中津城(大分県中津市)を築城し、のちに長男の黒田長政が筑前福岡藩初代藩主となります。
 
天正6年(1578年)11月、耳川(みみかわ、宮崎県児湯郡木城町)の合戦で、豊後国(宇佐市・中津市を除く大分県)の大友宗麟が島津義久に大敗を喫し、同12年(1584年)3月、肥前国(佐賀県と対馬市・壱岐市を除く長崎県)の龍造寺隆信が島津軍と島原の沖田畷(おきたなわて)で戦って敗死すると、島津義久は九州のほぼ全土を制覇します。
 
しかし、ここにきて、天正14年(1586年)4月、滅亡の近いことを悟った宗麟が、中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願します。これによって、20万とも25万ともいわれる九州征伐の大軍が来襲することになりました。
 
秀吉は天下人として、諸大名に私闘を禁じる惣無事令(そうぶじれい)を発布していて、その違反として島津氏の討伐を決意しました。自らの主力部隊が九州に上陸するのは、天正15年(1587年)3月ですが、秀吉は前年の7月、毛利氏を主力とする先鋒部隊を編成し、豊前へ派遣しました。秀吉がその軍監に抜擢したのが官兵衛でした。
 
軍監は、軍事の監督をする役職で、秀吉の名代として諸大名の連合軍に号令を出すものでした。官兵衛は戦いの前にまず、『我々に味方すれば領地は安堵する。寝返ることができない者も我々に歯向かわずにおれば悪いようにはしない。』などと、間諜を使って九州北部の領主たちに調略を仕掛けました。
 
同年12月初旬までに豊前一帯と筑前(福岡県北西部)は平定され、翌天正15年3月、秀吉が総勢20万人の大軍を率いて豊前小倉城に到着しました。そして、薩摩への軍評定が開かれます。全軍を東西二手に分けて薩摩へ進軍することになりました。
 
秀吉の弟・秀長が総大将をつとめ、豊後から日向(宮崎県)、大隅(鹿児島県東部)へ出て、薩摩を制圧する東軍は8万余。一方の西軍10万は、秀吉自らが大将をつとめ、豊前から筑前、筑後(福岡県南部)、肥後(熊本県)を経て薩摩へ進軍します。この策戦も官兵衛によるものとされ、彼自身も秀長の東軍に属して進撃しました。
 
秀長の東軍は、天正15年(1587年)4月17日、根白坂(ねじろざか、宮崎県児湯郡木城町)で島津軍を撃破、一方肥後方面を下った秀吉の西軍は、かつて薩摩の中心地だった川内(せんだい、鹿児島県薩摩川内市)の平佐城を猛攻の末、同29日に開場させました。
 
秀吉自身は、5月3日に川内の泰平寺の本陣に入って島津氏の出方をうかがいます。降伏を決断した島津16代当主・島津義久は、剃髪(ていはつ)し、名を龍白(りゅうはく)と改めて、8日泰平寺に出向いて秀吉に謁見。三女亀寿を人質に出し、正式に降伏。本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡の一郡が安堵されました。
 
下記のページが参考になります。
 ◆旅行記 ・泰平寺 − 鹿児島県薩摩川内市
 
【参考図書】
(1)歴史人、黒田官兵衛と軍師の真実(KKベストセラーズ、平成25年
   6月12日発行)
(2)黒田官兵衛、〜 天国と地獄 〜 その波乱の生涯(株式会社メディ
   アックス、平成25年11月30日発行)

  2013.12.18
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