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旅行記 ・泰平寺 − 鹿児島県薩摩川内市  2013.12
たい へい じ
泰平寺
秀吉・義久和睦の像
秀吉と義久の和睦 天正15年(1587年)、天下統一を目前にしていた豊臣秀吉は、反抗勢力だった西の将・島津氏を討つために25万とも伝えられる大軍を動員し薩摩へ向けて出陣しました。九州上陸後、軍を二つに分け、日向方面を南下する秀長(秀吉の弟)軍は、4月17日、根白坂(ねじろざか、現宮崎県児湯郡木城町)で島津軍を撃破、肥後方面を下る秀吉軍は、川内(せんだい)平佐城を猛攻の末、同29日に開場させました。
秀吉・義久和睦の像
秀吉自身は、5月3日にかつての薩摩の中心地・川内の泰平寺の本陣に入って、島津氏の出方をうかがいます。降伏を決断した島津16代当主・島津義久(よしひさ)は、剃髪(ていはつ)し名を龍白(りゅうはく)と改めて、8日泰平寺に出向いて秀吉と対面、和睦の儀が行われました。会見は、両者とも武将らしい態度であったと伝えられ、和睦が成立、(本領である薩摩国、大隅国と日向諸県郡を安堵され)島津氏は存亡の危機を脱しました(現地案内板より)
医王山正智院泰平寺
泰平寺 泰平寺は、鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市にある真言宗の寺。本尊は薬師如来。創立は和銅元年だといわれますが、その後の履歴は不明。天正15年(1587年)豊臣秀吉の薩摩侵攻の際に豊臣軍の本営となり、秀吉が島津義久と会見した舞台となったことで有名になりました。江戸時代にも島津氏の厚い尊崇を受けていましたが、明治2年(1869年)の廃仏毀釈で全山破壊され、貴重な寺宝もほとんどが行方不明となりました。
和睦石
現在残っているのは、大正12年(1923年)に地元有志の寄付によって再建された建物のみ。平成14年(2002年)に薩摩川内市教育委員会によって、泰平寺前の泰平寺公園に『秀吉・義久和睦の像』が建てられました。『和睦石』は、当時の泰平寺境内にあった石を並べて和睦の記念としたもので、激動の戦国時代を今日に伝えています。
宥印法印(ゆういんほういん)の墓
宥印法印(ゆういんほういん) 泰平寺が豊臣軍の本営になった時の住職が宥印法印(ゆういんほういん)でした。儒学にも通じた剛毅な性格の名僧で、豊臣軍の使者が、寺の明け渡しを要求したところ、『住職は寺と運命を共にするもの、一歩たりとも退く気はない。』と答え、寺の明け渡しを拒否しました。これを聞いた秀吉は、その態度に感心して、礼をもって再度申し入れたところ、『兵を恐れて逃げたとあれば恥になるから退去する寺を与えよ』と答えました。宥印法印は、現在の中郷一丁目の宅満寺(たくまんじ)に移りましたが、兵をまったく恐れる様子もなく、毎朝泰平寺に通い読経に勤め、その姿に皆感心したそうです。また、宥印法印は、島津義久と豊臣秀吉との和議のあっせんにも努力し、その功に対し、豊臣秀吉から刀や茶碗が贈られたそうです。宥印法印の墓は、宝塔的五倫塔で、高さ1.76mで、天正19年(1591年)の造立です(現地案内板より)
塩大黒御分体
泰平寺にまつわる『塩大黒』(あるいは、塩買い大黒)という民話があって、市原悦子さんと常田富士男さんの語りによる『まんが日本昔ばなし』にも取り上げられました。泰平寺の入口には、塩大黒の御分体として、石づくりの小槌(こづち)が置かれています。
民話『塩大黒』
昔、川内川(せんだいがわ)という大きな川のほとりに泰平寺(たいへいじ)というお寺がありました。あるとき、この地方で塩が手に入らず困ったことがありました。そんなとき、ひとりの小坊主が本堂で掃除をしていると、壇上でどっかりとしてにこやかなに座っている大黒さんが目に入りました。そして、『大黒さんはいいね。塩が足りなくて皆が困ってるのに、のんびりと笑ちょれて!』『だいたいあなたは、福を持ってくるのが仕事でしょう。何とかしてくぃやい(して下さい)!』とぼやきますが、何せ、相手は木彫りの大黒さん、いくら文句を言っても返事をするわけがありません。ところが2、3日たったある日のこと、大変なことが起こりました。大黒さんが本堂から無くなってしまったのです。盗まれたのでしょうか? この大黒さんは実は、伝教法師作と伝わる泰平寺の秘宝でもありました。寺の者総出で村中を探しましたがみつかりません。川向こうの村々まで探しに行きましたが、とうとう見つかりませんでした。それから数日経ったある日、荷物を満載した船が川内川をさかのぼり、泰平寺の船着場に着きました。それが何と山積みの塩ではありませんか。寺の者も村人も大喜びです。『これはどうしたことでしょうか?』と住職が船頭さんにたずねると、『こちらの坊さんが甑島(こしきじま)に来られて、寺の近辺で塩が無くて困っているので、一刻も早く集めて欲しいと泣いて頼まれたのじゃ。お代はその坊さんからもらったので、この塩は納めて下さい。』とのこと。しかし、盗難騒ぎの中、甑島に渡った坊さんなどいません。すると、船頭さんは、『ほれ、今本堂に入って行かれた坊さんじゃっど(だよ)』というので、本堂に駆け込んでみると、なぜが誰もいません。ところが、入口から点々と土足の足跡があり、それは壇上に続いておりました。そして、その先には無くなったはずの大黒さんがいつの間にか戻っていたのです。そしてその足は泥だらけでした。これを見て、あのときの小坊主は、『これは、きっと大黒さんが私の愚痴を聞いて下さったのに違いない。大黒さん、この前はすみませんでした。そして、沢山の塩を有難うございました。』と言って、手をあわせてあやまるのでした。このとき以来、この大黒さんは『塩大黒』と呼ばれるようになりました。おしまい。〜以上、泰平寺の音声案内などを参考にして書きました。
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