レポート | ・庚申信仰 |
− 庚申信仰 −
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道教によると、人間の寿命は天に住む司命道人があやつっていると言われます。人間の体内には『三尸』(さんし)という三匹の虫が住んでいて、庚申(こうしん)の日の夜になると、人間が眠っている間に体内から抜け出して天に昇り、道人にその人間の犯した罪を訴えます。すると、その罪によって寿命が短くなるというわけです。 庚申(かのえさる、こうしん)は、十干(じっかん)の庚(かのえ、こう)と十二支(じゅうにし)の申(さる、しん)の組み合わせの年あるいは日で、それぞれ60年ごと、60日ごとにやってきます。庚、申はともに金性であることから、庚申の年や庚申の日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされます。 人間は誰しも過ちのあるもの。それを60日ごとに報告されて寿命が縮まるのではたまりません。そこで、庚申の夜は、三尸の虫が体内から抜け出さないように徹夜して過ごすことが必要だ、と説くのが庚申信仰の骨子です。特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという宗教行為で、これを『守庚申』(しゅこうしん)と言いました。 守庚申がわが国へいつ伝来したのかはっきりしないようですが、平安時代には宮中で天皇を中心とした守庚申がおこなわれていたのは確かだそうです。宮中では、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す『庚申御遊』(こうしんぎょゆう)と称する宴が行われるようになり、9世紀末から10世紀の頃には、恒例化していたらしいです。 やがて、時には酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨から外れた遊興的な要素が強くなっていきました。鎌倉時代から室町時代になると、上層武士階級へと拡がりを見せるようになり、やがて守庚申は、『庚申待』(こうしんまち)と名を変え、会食談義を行って徹夜する風習となって行きました。 大阪四天王寺の南大門から南へ 300メートルのところにある四天王寺・庚申堂が日本初の庚申尊だと言われます。今から1300年ほど前の飛鳥時代は文武天皇の御代( 697〜 707年)、いろいろな疫病が流行し、諸人が大いに悩み苦しんだため、良医の薬を求め、高僧の祈りを求めるなどさまざまなことを行うも、何の効果も得られません。 この頃、津の国四天王寺に僧都・豪範という貴い僧があって、広く人間の悩みを助けようと天に祈り続けていました。すると、天宝元年( 701年)庚申年の正月7日庚申の日に、年の頃16才くらいとおもわれる一人の童子が現れ、守庚申の作法を授けたといわれます。 その童子は帝釈天(たいしゃくてん)の使者である青面金剛(しょうめんこんごう)だとし、これを庚申尊と名付けて、境内に庚申堂を建てて祀りました。そして、夜中仏事が行われ信者が参詣しました。これは仏教が道教を習合したもので、京都の八坂庚申や江戸の入谷の庚申堂(現存しない)に伝わっていきました。 三尸の虫はコンニャクが嫌いということで、人々は庚申の日にコンニャクを食べて退治しました。また、庚申信仰では猿が庚申尊の使いとされ、青面金剛像や庚申塔には『見ざる、言わざる、聞かざる』の三猿が添えて描かれることが多いでした。 四天王寺・庚申堂では、庚申日には、コンニャク炊きの出店などが出され、また三猿堂が開帳されて、参詣人で賑わうそうです。 旅行記 ・四天王寺庚申堂 − 大阪市 → http://washimo-web.jp/Trip/Koshin/koshin.htm 【参考サイト】 (1)谷戸貞彦著、七福神と聖天さん−民間信仰の歴史−、 大元出版 (2005/10) (2)庚申信仰とは (3)庚申 - Wikipedia (4)庚申信仰 - Wikipedia |
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2015.05.20 | ||||
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