コラム | ・小坂鉱山事務所訪問余話 |
− 小坂鉱山事務所余話 −
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十和田湖から秋田県側へ車で約40分下れば小坂。ここはかつて足尾鉱山(栃木県)、別子鉱山(愛媛県)とともに日本三大銅山と称された小坂鉱山があったところです。今回の青森、十和田湖・奥入瀬への旅の目的の一つが『小坂鉱山事務所』を訪ねることでした。 明治35年(1902年)頃に、日本有数の大鉱山として発展を遂げた小坂には、山の中にアパート、劇場、病院、鉄道等の近代的なインフラストラクチャー整備が進められました。明治38年(1905年)に小坂鉱山事務所、明治43年(1910年)には厚生施設として芝居小屋の康楽館が竣工。以下は、旅行記に書けなかった小坂鉱山事務所訪問余話です。 §1 小坂への旅(小坂鉱山へ赴任する社員家族) 小坂鉱山の発展とともに、小坂の町には大阪や東京から進んだ文化がもたらされました。都会の文化を持ち込んだのは、小坂鉱山へ赴任する社員とその家族でした。明治38年(1905年)に奥羽本線が全線開通し、明治42年(1909年)に大舘(おおだて)・小坂間に小坂鉄道が開業して便利になったとはいえ、本店のある大阪から小坂まで約1,260km におよぶ旅はたいへんなものでした。 大阪から東海道本線を夜行で発ち、翌日の朝に東京へ。さらに奥羽本線経由の夜行列車で大舘へ。大舘到着は三日目の午後。小坂へ到着するのは、すでに夕暮れのせまるころでした。(小坂鉱山事務所の展示パネルより) §2 鉱山技師クルト・ネット―のクリスマスパーティー 小坂鉱山が盛岡(南部)藩から没収されて官営になって、明治6年(1876年)明治政府はドイツ人鉱山技師クルト・ネット―を招きました。日本、小坂を愛したクルト・ネット―は、屋敷の畳の部屋にクリスマスツリーを飾り付け、村の人々を招いてパーティーを開きました。 日本でクリスマスの習慣が広まったのは明治以降、日本人によって祝われたのは明治8年東京・銀座の原女学校が最初だったといわれています。ネット―のクリスマスはこの地方で最初のクリスマスパーティーでした。『小坂鉱山事務所』に展示されている模型は、その様子をネット―自身が描いた水彩画をもとに再現したものです。(小坂鉱山事務所の展示パネルより) §3 ローヤル映写機(L型) 康楽館では昭和7年(1932年)に映写室が完成し、アーク灯を光源とするローヤル映写機が設置されたといわれます。康楽館の修復にあたり、映写室に置かれていた2台の映写機が保存されることになりましたが、それは映写室設置当時からのものであり、ドイツ製であると伝えられていました。 しかし、銘板には『KOMITSU 』の商標と東京製であることが記されており、また『ローヤル』という名称は、大正7年(1918年)創業の高蜜工場(後の高光工業)が製造する映写機のブランド名として知られていることから、その映写機は同社製造のものと推定されます。 §4 映画『あの橋の畔で』 小坂鉱山事務所には当時康楽館で上映された映画のポスターが何枚か貼られていました。例えば、『復習のガンマン』、『夜霧よ今夜も有難う』、『あの橋の畔で』あるいは『走れトマト』など。『あの橋の畔で』は次のような映画だったそうです。 昭和37年(1962年)7月1日公開。菊田一夫原作、野村芳太郎と山田洋次が共同で脚色。野村芳太郎監督のメロドラマ。キャストは、桑野みゆき、園井啓介、穂積隆信ほか左幸子、渡辺美佐子、沢村貞子、西村晃、神山繁など。 父を看護するため故郷へ帰らねばならない新村葉子と建築科の秀才・菅野光晴は、数寄屋橋公園で、愛を確かめ合い再会を誓って別れた。大学を卒業した光晴は、早速葉子の故郷、平戸の生月島を訪ね、結婚を申し入れた。だが彼女の父は、東京にいる葉子の兄に相談してくれという。 葉子の兄健二郎は、出世の足がかりとして会社の大株主の息子・沢野信介と葉子の縁談を計算していた。健二郎にことわられた光晴は、葉子の上京を促す手紙を投函しようと家を出た時、自動車にハネられてしまった。出血多量で危ぶまれた光晴を献身的な看護で救ったのは看護婦・町田トキだった。 詳しくは、 → http://movie.walkerplus.com/mv20597/
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2016.07.20 | ||||
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