レポート | ・近衛信輔と坊津 |
− 近衛信輔と坊津 −
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旅をすると、思いもしなかった歴史に遭遇することがあります。今年(2011年)10月16日(日)に訪ねた鹿児島県南さつま市坊津町の伝統行事『坊ほぜどん』のルーツにかかわる歴史もまたその一つです。 鹿児島県内の伝統的な祭りといったら、島津氏の武家物か、あるいは『田の神さぁ』にまつわるものがほとんどという中で、珍しいことに、坊津・八坂神社の大祭である『坊ほぜどん』は、京風のなんとも雅(みやび)やかな行事で、ルーツは祇園祭とも御霊会(ごりょうえ)ともいわれます。 坊津はかつて日本三津(さんしん)といわれ、中国南方貿易などで栄えた港でした。行き交う交易船によって、京や近畿あたりから商人や町人の祭りとして持ち込まれたのがルーツなのだろうと思っていました。ところが、調べてみると、近衛信輔(のぶすけ)というお公家さんに行き当たったのです。 近衛信輔(1565〜1614年)は、安土桃山時代の公家。近衛前久(さきひさ)の嫡男として誕生。元服した際に織田信長から一字を貰い信基(のぶもと)と名乗り、のちに、信尹(のぶただ)、信輔と称し、号を三貎院(さんみゃくいん)ともいいます。 書、和歌、連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示し、特に書道は、本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに後世、『寛永の三筆』といわれ、能書を称えられます。近衛流書流の元祖。1580年、内大臣となり、同年さらに左大臣に任じられます。従一位。 1582年、本能寺の変で織田信長が亡くなった2年後、羽柴秀吉は自らを頂点とした武家政権を確立するため、足利義昭の猶子(ゆうし、名目上の子)となり、征夷大将軍になることを望みますが、義昭がこれを強く拒んだため実現しませんでした。 そこで、秀吉はこんどは天皇に代わって政治を行う関白の職を狙うことになります。折しも1585年に、近衛信輔が、前年に関白に就任したばかりの二条昭実(あきざね)に対し関白職を譲り渡すよう求めて激しく対立する、いわゆる『関白相論』(かんぱくそうろん)が起きます。 この抗争は、同年に秀吉が内大臣に昇進したことをきっかけとした人事抗争でしたが、秀吉はこの抗争をうまく利用します。二条昭実と近衛信輔の争いを調停するという名目で、秀吉自身が近衛前久の猶子となって関白に就任したのです。 いわゆる、『漁夫の利』を得たというわけです。本能寺の変からわずか4年後のことですから大出世で、豊臣政権にとって大きな画期となりました。2011年のNHK大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』では、5月1日の第16回”関白秀吉”で、ここのところが放映されました。 一方、当事者である近衛信輔と二条昭実は、関白と同等の官位である従一位と、知行の加増という沙汰でおなぐさめということになったのですが、元々武士への憧れが強かった信輔は、どうせ関白になれないのなら、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参加して朝鮮に渡海しようと京都を出奔したりします。 廷臣として余りにも奔放な信輔の行動は、後陽成天皇の勅勘(ちょっかん、天皇からのとがめ)を被るところとなり、1594年、近衛信輔は坊津へ流されます。信輔30歳のときでした。一説には、秀吉が征夷大将軍になることに信輔が反対し、秀吉の怒りに触れたための配流だったともいわれます。 ここで、坊津の位置を地図で確かめてみましょう。坊津は、薩摩半島の最南端のそのまた西端にあります。京から離れた、配流の地としていかにもふさわしいと思われる僻地(へきち)にあります。しかし、薩摩は元々、近衛家とは縁故の深い間柄の地でした。 ・坊津(鹿児島県南さつま市坊津町)の位置(地図) → http://washimo-web.jp/Information/BounotsuMap.htm 島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津荘(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として、九州に下って勢力を拡大し、その子の惟宗忠久が、源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ、島津を称したのが始まりとされます。 そして、近衛信輔が配流された当時の坊津は近衛家の荘園でしたから、配流といっても、今流にいえば、自分の会社の本社から地方の支店に飛ばされたという感じで、信輔に配慮したものだったといえるでしょう。 信輔は、1年3ヶ月の間、坊津のささやかな屋敷で配流の身を過ごしました。これを、島津義久(島津氏第16代当主)は好遇したといわれます。現在、近衞屋敷跡は近衞公園となっており、近衞文麿による碑が建立され、信輔直々のお手植えと伝えられる藤が毎年美しい花を咲かせます。 信輔は、滞在期間中、近在を散策し勝景を探っては、坊津八景を選んで和歌を詠んだり、地元の人に書画を教え、都の文化を広め、当代一流の文化人として薩摩の文化に貢献したといわれています。そして、京を偲んではじめられたのが、八坂神社の大祭『坊ほぜどん』でした。また、鹿児島の代表的民謡である『ハンヤ節』(繁栄節)の作者であるとも伝えられています。 1596年、勅許(天皇の許可)が下り、信輔は京都に戻りました。1600年9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣にともない、枕崎・鹿籠(かこ)7代領主・喜入忠政も家臣を伴って従軍しましたが、敗北し撤退を余儀なくされました。 そのとき、京の信輔が密かにかれらを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができました。また、島津義弘譜代の家臣・押川強兵衛も義弘に従って撤退中にはぐれてしまいましたが、信輔邸に逃げ込んでその庇護を得て、無事薩摩に帰国できたといわれます。 信輔の父・前久も薩摩国鹿児島の島津義久へ下向(1575年)の経験をしており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し、家康から所領安堵確約を取り付けており、前久・信輔は父子で薩摩に滞在し、薩摩の平和・文化の発展に貢献したことになります。 後年、天璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ、1836〜1883年)は、島津本家・藩主島津斉彬の養女となった後、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となっています。 ◆旅行記 ・坊ほぜどん − 鹿児島県南さつま市坊津町 → http://washimo-web.jp/Trip/Hozedon/hozedon.htm 【参考にしたサイト】 (1)近衞信尹 - Wikipedia (2)近衞前久 - Wikipedia (3)島津氏 - Wikipedia (4)近衛信伊(信輔)と坊津 - かごしま検定をめざす鹿児島案内 (5)History 知られざる歴史への招待その5 |
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2011.10.26 | ||||
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