コラム | ・4人の総理大臣を輩出している岩手県 |
− 4人の総理大臣を輩出している岩手県 −
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戦前戦後を通じた現在までの62人の内閣総理大臣の出身県を調べてみると、最も多いのが山口県の8人でダントツである。つぎに東京都の5人、岩手県と群馬県の4人と続く(戦後は群馬県が4人で最多)。明治維新を主導した山口県(長州)と首都として人材が多い東京都についてはうなずけるが、岩手県の3位は意外に思われる。 岩手県は、北海道を除くと、日本一広い県で、四国四県とほぼ同じ面積を持つ。しかし、その80%が山地である。県南の北上川流域はのびやかな平野が広がる米作地帯だが、県北部の三陸海岸から県内部に向かって初夏に吹く冷たい東風『やませ』の風下に当たるため、冷害・凶作に見舞われてきた。 慶長5年(1600年)から明治3年(1870年)までの盛岡藩政時代の 270年間を通じて断続的に飢饉が続き、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あり、その度に多大な死者を出し一揆も頻繁に起きている。 年貢米の取り立ては豊凶にかかわりなく厳しかった。困り果てた農民たちの中には年貢の代わりに、娘を藩に差し出す者もあった。いわば人身御供である。岩手県の民謡『沢内甚句』(さわうちじんく)にはその悲哀が歌われているという。 明治維新において盛岡藩内は当初、新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に奥羽越列藩同盟へ参加し、途中から新政府側についた久保田藩(秋田)との戦線いわゆる秋田戦争に参加した。結果、戊辰戦争の戦後処理として盛岡藩は、会津藩、庄内藩、山形藩などとともに減転封を命じられた。 そのため、維新後明治政府からいわゆる朝敵として疎んじらることになった。そんな中で岩手県は、原敬(第19代)、斎藤実(第30代)、米内光政(第37代)、鈴木善幸(第70代)の4人の内閣総理大臣を輩出している。 藩閥の専横と旧幕府側についた者に対する差別を身をもって体験した原敬は、藩閥側が与えようとする爵位を拒み続け、爵位を持たない日本で初めての総理大臣となり、後に『平民宰相』と呼ばれた。 総理大臣にはならなかったが、後藤新平(台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣などを歴任)や新渡戸稲造(にとべいなぞう、日本の農学者・教育者・倫理哲学者)なども岩手県の出身である。 なぜ、岩手県から多くの人材が輩出したのか。厳しい自然環境の中で育ち身を立てるには、勉学に励むしかないという強い思いと東北人の粘り強さがその華を咲かせたというのは、きっと月並みな言い方であろう。 【参考サイト】 (1)盛岡藩 - Wikipedia (2)第14回 岩手県とはどんなところ? その2 民謡にみる哀しさ → http://www.econfn.com/iwadare/page064.html |
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2013.07.03 | ||||
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