レポート  ・純信とお馬の恋物語   
− 純信とお馬の恋物語 −
去高知市街中心部にある『はりまや橋』(播磨屋橋)は、『♪土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た〜』とよさこい節やペギー葉山さんの楽曲『南国土佐を後にして』で歌われてあまりにも有名ですが、現地に行ってみると、道路の両脇に長さ約 20mにわたって石造りの桁があるだけで、その下に川も流れていません(そのため、公園を整備し、朱塗り欄干の小さな橋が架けられています)。
 
いわゆる日本三大がっかり名所の一つ(あとの二つは札幌の時計台と長崎のオランダ坂など)に数えられている所以でしょうが、『はりまや橋』にまつわる『純信とお馬の恋物語』には興味をそそられます。
 
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文政2年(1819年)、土佐国高岡郡戸波郷市野々村で佐川家家臣の嫡男として生まれた純信(じゅんしん)は、9歳で京都に上って修行に励み、帰国して五台山竹林寺脇坊の住職をしていた頃、僧侶の身でありながら、鋳掛屋(鋳造された鍋、釜などの鋳物製品の修理・修繕を行う職業)の娘で20歳年下のお馬と禁断の恋に陥ります。
 
純信37歳、お馬17歳。僧侶は妻帯が禁止されていましたから、安政2年(1855年)の5月の深夜、純信とお馬は駆け落ちをして、笹口番所の裏道から阿波(現・徳島県)に入り、讃岐(現・香川県)の琴平の旅籠に泊まっていたところを、関所破りで捕まります。
 
『♪土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た〜』と歌われている、はりまや橋でかんざしを買った坊さんは、実は純信ではなく、竹林寺の慶全という若い修行僧だったのです。
 
最初は、お馬と良い仲だったのこの慶全でした。ところが、お馬は、慶全の師にあたる住職の純信に次第に好意を持つようになり、慶全から次第に気持ちが離れて行きました。純信もまんざらでもありませんでした。
 
慶全は、お馬の心をなんとか取り戻したい思い、播磨屋橋の小間物屋・橘屋で珊瑚のかんざしを買い求め、お馬に贈りましたが、純信への思いが募るお馬から袖にされます。失恋した慶全は、お馬と純信の仲を裂こうと思い、純信が播磨屋橋でかんざしを買い、お馬に贈ったと嘘の申し立てをしました。

    
その話は、たちまち高知城下で広く噂となり、純信とお馬は住み難くなり、駆け落ちに及んだのでした。琴平の旅籠で捕まった純信とお馬は、安政2年(1855年)9月、高知城下の晒し場で面晒しの刑を受け、国外追放になります。
 
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その後、純信は、伊予国宇摩郡川之江(現・四国中央市)の川村亀吉の庇護のもと寺子屋で教えていましたが、亀吉の死後にはその地を離れ、晩年は浮穴郡東川(現・愛媛県久万高原町)で、慶翁徳念和尚(俗名・中田与吉)を名乗って生活し、後に結婚し、一男一女をもうけ、明治21年に69歳で亡くなりました。
 
お馬は安田村(現・高知県安芸郡)の旅館に奉公していましたが、追ってきた純信とのことが原因で須崎(現・高知県須崎市)へ追われ、庄屋預りの身になります。その後、大工の寺崎米之助と結婚。
 
子供に恵まれ、長男の徳太郎が陸軍御用大工になったことを機に一家で上京し、滝野川(現・東京都北区)に移り住み、明治36年に66歳でな亡くなりました。(以上、播磨屋橋 - Wikipedia など参考)
 
下記の旅行記が参考になります・
 
 旅行記 ・高知 − 高知県高知市
     → http://washimo-web.jp/Trip/Kouchi/kouchi.htm
 

2017.10.25
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