レポート | ・濱崎太平次 |
− 濱崎太平次 −
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風雲急を告げる幕末、一葉の船に身を託して雄々しく海洋に乗り出し、貿易・運送・造船の大事業を成し遂げ、紀州の紀伊国屋文左衛門、加賀百万石の銭屋五兵衛とともに、江戸時代の『実業界の三傑』と呼ばれた薩摩の豪商がいました。指宿が生んだヤマキ(濱崎家の屋号)の第八代濱崎太平次(はまさきたへいじ、1814〜1863年)です。 調所広郷(ずしょひろさと)が行った薩摩藩財政再建に身を賭して貢献し、その資金が明治維新の原動力となって新しい日本の夜明けを迎えることになりますが、50歳のとき大阪で客死します。 その死後、時勢の激変に加え、後継者がいなかったため濱崎家は凋落。一時代盛大を極めた濱崎太平次でしたが、今日、鹿児島でも知る人ぞ知る的歴史上の人物になっています。濱崎太平次の略伝について調べました。 (1)その先祖と生立ち 濱崎家の家系図によれば濱崎家の先祖は、國分村(現在の鹿児島県霧島市国分)八幡宮の神官であり、今からおよそ 350年前、訳あって現在の指宿市十二町(じゅうにちょう)の湊(みなと)に転居したらしい。 二代目を杉兵衛、三代目を新平、四代目を太兵衛といい、海運業の基礎を築いたといわれます。そして、五代目の太左衛門は海運業をさらに発展させ、日本の長者 263人中の一人に入り、時の薩摩藩第九代藩主島津斉宣(なりのぶ)公が保養のため指宿村の長井温泉を訪れると、自宅内に『御座間』という貴賓室を建てて島津氏の別荘としました。 このことがきっかけとなって、島津家とM崎家の関係は明治まで続いていきます。また、太左衛門は斉宣公の命により、長井温泉に湯権現(ゆのごんげん)を造営し、指宿の温泉開拓の拠り所としました。 M崎家は、第六代目から太平次を名乗りますが、この初代太平次は、島津家の別荘であった長井温泉行館の外廊や石塀等を寄附した功績が認められ、斉宣公から稲荷丸の手形を受け荷物を運漕する権利を与えられ、海運業を大発展させる礎を築きました。 この頃、時の藩主(斉興、斉彬、久光、忠義)の行き来が頻繁で、濱崎家の屋敷は御殿造りの堂々たるもので、屋敷前の道は御本陣馬場と呼ばれ、死人の棺(ひつぎ)が通ったり、青年などが放歌したりすることが禁じられていたといわれます。 ここに、ヤマキは全盛を極めますが、第7代太平次のときになぜか家運が傾き、その長男として生まれた第八代太平次は、収穫が終わった畑で唐芋を拾って飢えを凌ぐような少年期を過ごしました。 (2)青春時代 この没落した屋号ヤマキをみごとに再建したのが八代目太平次でした。『栴檀(せんだん)は二葉にして香し』(大成する人物は、幼いときから人並みはずれて優れたところがある)の例えあり。太平次が初めて船に乗って琉球へ下ったのは14歳のときでした。太平次は直ちに島の産物に目をつけて商品を買い、手付金を投じたといわれま す。 18歳のとき父が亡くなると、太平次の名を継ぎ、指宿村の摺ヶ浜の笹貫長兵衛という人に商売の元手を借りに行き、『金は貸してはやるが、船乗りは板子一枚下は地獄である故に長男は家に居て安全な仕事をやった方がいい』とさとされますが、太平次は聞き入れませんでした。 笹貫長兵衛から借りた金を元手に琉球貿易から海運業を始めた太平次は、調所広郷と出会い、藩の御用商人として、薩摩藩の財政立て直しのための密貿易の仕事をするようになります。これが八代目太平次が成功する発端となりました。 (3)太平次の活躍 長ずるにともない、父祖の遺業である造船に力を注ぎ30余隻の大船を造り(これは生涯を通じての船数で、安政2年(1855年)頃の持船数は8隻であったらしい)、琉球諸島および九州・四国の主たる港や大坂、新潟、北海道などに航海し、さらに支那の南部廈門(アモイ)やジャワなどの遠くにでかけて商品を売買しました。貿易の主たる根拠地は以下のようでした。 〔琉球〕 支那(清)貿易中継港 支配人 高崎新右衛門、肥後忠平 〔長崎〕 欧人および支那人との取引 支配人 中村善右衛門、高崎 覚兵衛 〔大坂〕 薩摩屋敷のすぐ隣に居を構える 肥後 孫左衛門 〔北海道(函館)〕 弟 彌兵衛 主任 〔甑島〕 寒天海苔を買入れる 〔宮崎〕 高城(たかぎ)にて寒天製造 人夫 300人 使用 濱崎太七 支配人 〔鹿児島〕 朝日通海岸に構える 今井 嘉兵衛、永田 公二 〔指宿〕 池水 幸之十 氏 主たる 造船場 数千坪 島津氏の応接 〔その他〕 新潟 支那の廈門(アモイ) ジャワ島 一方で、調所広郷の内命をうけて密貿易や砂糖運送などに活躍するなどして、薩摩藩の財政再建に貢献しました。文政期(1818〜1830年)、薩摩藩の借金は 500万両の巨額に達していて、参勤交代さえもままならぬ窮状にありました。天保9年(1838年)、調所広郷は家老職につくと藩の財政改革に着手しました。 広郷は、商人の借金を無利子で 250年の分割払いにさせ、琉球を通じて清と密貿易を行なう一方で、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制にし、商品作物の開発などを行うなどの財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に 250万両の蓄えが出来る程にまで財政を回復させました。 (4)藩への献金、寄与 太平次は、指宿村二月田(にがつだ)の温泉行館(殿様湯)の建立や新田地区開発にともなう神社の建替、谷山筋整備に伴う今和泉道の引き直しなどに対して度々献金したと伝えられます。文久2年(1862年)薩摩藩がミネヘル銃を購入する際、他の商人先がけて2万両を調達したことは、太平次の経済力の一端を示すものでした。 太平次の寄与はそればかりではありませんでした。あるときは、琉球より洋糸を入手しそれを藩主斉彬公に献上して、それをきっかけに紡績機械をイギリスのブラット商会に注文し、藩営紡績工場の操業開始をみたといわれます。 (5)太平次の終焉とその後 文久3年(1863年)、太平次は大阪で客死しました。享年50歳。調所の死から15年後、斉彬公の死か5年後のことでした。太平次が亡くなって5年後に明治維新が起こり、日本は近代化への道を歩み始めます。太平次死亡の知らせを聞いて、時の藩主久光公は『あゝ我が片腕を失った』と嘆いたそうです。また、病床に伏したとき孝明天皇が侍医を遣わせたといわれます。 太平次には一男一女がありましたが、男の子は24歳の時、父の死後3年目に鹿児島で病死して、太平次の弟の彌兵衛の長男が後を継ぎましたが、次第に家運が衰えて、湊の潮は減ってもヤマキの金は減らないといわれた濱崎太平次家も、明治以後の時流に乗れないまま、明治43年に断絶してしまいました。 下記の旅行記が参考になります。 ・島津寒天工場跡 − 宮崎県都城市 ・殿様湯跡と湯権現 − 鹿児島県指宿市 ・濱崎太平次ゆかりの地を訪ねて − 鹿児島県指宿市 【参考文献およびサイト】 (1)幕末の豪商濱崎太平次翁之略傳(第一版昭和6年6月濱崎助次発行、第五版平成7年12月濱崎國武発行) (2)幕末の豪商濱崎太平次と関連文化財(篤姫情報満載!指宿の博物館) |
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