レポート  ・映画『裸の島』   
− 映画『裸の島』 −

この年になるまで知らずにいたことに出くわすと、知らなかったことが恥ずかしいなという思いと同時に、食べずに隠して置いたおやつを忘れた頃に見つけたような嬉しさがあります。今回のレポートの映画『裸の島』の話しもその一つです。
 
今年(2009年)7月中旬、カラオケ教室の年に一度の発表会の打ち上げの席で、ちょっとした映画談義が持ち上がりました。まず話題に上がったのが、瀬戸内海の小さな孤島に暮らす4人家族の物語で、無声映画ではなけれど一切のセリフを排除したユニークな映画のことでしたが、『出演は、あの禿頭にギョロ目をした老人風貌の役者、え〜っと名前は・・・、誰だったっけ?、あ、そうだ、殿山泰司だ』というだけで、映画名も分からぬまま話しは、中村吉右衛門の『鬼平犯科帳』の話題に移りました。
 
帰宅してインターネットで調べてみると、1960年制作の、乙羽信子、殿山泰司主演の『裸の島』という映画で、世界64ヵ国に輸出され、数々の映画賞に輝いた新藤兼人監督の代表作だということが分かりました。DVDが町内のTSUTAYA には置いてないというので、ネット宅配レンタル(2,000円弱、送料無料)を利用して借りて観ました。
 
父(殿山)と母(乙羽)と8歳と6歳の男の子、そして一頭の山羊と3羽のアヒルだけが暮らす、周囲が 800mばかりの小さな孤島。水のない、乾ききった島の急斜面に植えた作物に水を注ぐために、来る日も来る日も、伝馬船で隣の島まで行って、肥担桶(こえたご)と呼ばれる水桶に水を汲んで運んでは、天秤棒で担いで急坂を一歩一歩よじ登っていきます。
 
乙羽信子36歳のときの作品。華奢な乙羽の肩で天秤棒が大きく撓(しな)り、歩くたびに、ギィ、ギィと撓り声を立てます。その単調ともいえる繰り返しの映像が、観る者の目と心を釘付けにします。そして、かけ声や笑い声、泣き声やポンポン船の音など以外は音のない、一切のセリフが排除された映画。林光の音楽が心に沁みます。
 
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新藤兼人は、1912年(明治45年)に、広島市内から一山越えた農村の豪農の家に生まれますが、父が借金の連帯保証人になったことで破産し、14歳の頃に一家は離散。小さい頃から活動写真に惹かれていた新藤青年は、21歳の時、映画を志し京都へ出ますが、志望していた映画助監督への道は狭く、一年ほどたった後、現像部のフィルム乾燥雑役として映画キャリアをスタートさせます。
 
目指す助監督という創造の世界とはかけ離れた長靴履きの辛い水仕事のなかで、撮影所の便所で落とし紙にされたシナリオを発見、初めて映画がシナリオから出来ていることを知ります。そして、脚本家を目指しシナリオを投稿し続けるものの映画化されることはないまま、1944年、32歳で召集され二等兵として呉海兵団に入団します。
 
終戦後に書いた脚本が映画化されると初めて実力が認められ、シナリオライターとしての地位を固めますが、新藤のシナリオは社会性が強くて暗いとクレームがつけられると、自らの作家性を貫くため1950年、松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる『近代映画協会』を殿山泰司らと設立します。
 
1951年、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たしますが、このとき大映のスターとして期待されていた乙羽信子がこの脚本を読み、どうしても妻の役をやりたいと大映の反対を押し切り、願い出てきます。新藤には妻子がいましたが、この頃より愛人関係になり、籍を入れない日陰の身でもかまわないと言う乙羽は、大映を辞め、新藤のいる近代映画協会入りすることになります(乙羽は、新藤が妻を亡くしたのち、1978年に入籍、1994年に70歳で死去)。
 
1952年、戦後初めて原爆を直接取り上げた映画『原爆の子』を発表し、翌年カンヌ国際映画祭に出品しますが、米国がこの作品に圧力をかけるなど、各国で物議をかもしながら、各国での反響も大きく、チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けます。以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、数多くの作品を発表していきますが、産業としての映画の衰退とともに経営が立ち行かなくなります。
 
1960年に、近代映画協会の解散記念作品にと、半ばふて腐れ気味で、キャスト2人・スタッフ11人で瀬戸内海ロケを敢行して制作したのが『裸の島』でした。撮影期間が1ヶ月、わずか 550万円の予算で作り上げた作品でしたが、モスクワ国際映画祭でグランプリを獲り、各国の映画バイヤーから次々に買い入れの申し入れがあり、最終的に世界62ヶ国に作品の上映権を売ることで、それまでの借金を返済しました。
 
数多くあった当時の独立系プロが経営不振で次々と姿を消すなかで、近代映画協会は立ち直り、現在もなお映画を制作し続けています。たとえば、2008年の作品に『石内尋常高等小学校 花は散れども』(監督・原作・脚本:新藤兼人、音楽:林光)があります。そして、新藤兼人は、今年97歳の世界最長老の現役映画監督。
 
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著者(本HPの管理者)が、広島県東北部にある府中市上下町を訪ねたあと広島県三原市に一泊したのは、今年8月のお盆前でした。実は、『裸の島』のロケが行われたのは、三原港沖に浮かぶ佐木島という島の約 1km北にある宿祢島(すくねじま)という島でした。翌朝、広島県竹原市に向うJR呉線の車窓から宿祢島が見えないものだろうかと眺めていると、車窓に突如『瀬戸田−尾道』と書かれた観光船が現れ過ぎて行きました。
 
映画『裸の島』で、下の6歳の男の子が一尾の大きな鯛を釣り上げます。家族4人は大喜びし、それを尾道に売りにいきます。魚屋を何軒も回ってやっとのことで買ってもらって得たお金で、家族は食堂に入って久し振りに外食し、子どもたちのランニングシャツを買い、ロープウェイで千光寺山に乗って一日を過ごします。そのとき、映像に写ったのが、『瀬戸田−尾道』と書かれた観光船だったのです。映画『裸の島』を思い出しながらなお一層の旅情が感じられたJR呉線の旅でした。(文中敬称略)
 
下記のブログで、映画『裸の島』の写真をみることができます。
・『裸の島』The Island - Kabu + Plus - 楽天ブログ(Blog)
  
【参考にしたサイト】
・新藤兼人監督と近代映画協会については、フリー百科事典『ウィキペディア』を参考にし、一部文章を引用しました。
 

2009.10.07  
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