コラム  ・勘当と和解 〜 伊達政宗と秀宗   
− 勘当と和解 〜 伊達政宗と秀宗 −
今年(2017年)4月、四国ツアーに出かけました。四国本島の西の端に宇和島市があります。この付近は、今でも日本の市の中で東京からの移動時間を最も要する場所のひとつです。
 
近世、この宇和島藩(10万石)の初代藩主になったのが、あの仙台藩(62万石)初代藩主・伊達政宗の庶長子(正室ではない女性から生まれた長男)、伊達秀宗でした。秀宗は、3歳からの幼年期を豊臣秀吉、石田三成、徳川家康の3家の人質として育ちます。
 
豊臣秀吉の猶子(ゆうし、親子関係を結ぶ制度)となり、秀吉のもとで元服し、秀吉の『秀』の一字を賜って命名されるほど豊臣秀吉に可愛がられましたが、それゆえに、徳川の時代になって、仙台藩を継ぐことができませんでした。
 
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に父とともに参陣して初陣を飾ると、戦後、参陣の功として秀宗に伊予宇和島が別家として与えられ、同年その初代藩主となりましたが、宇和島に入部して6年目に宇和島藩で内紛がおきます。
 
これを契機に、伊達政宗と秀宗の親子関係が険悪化し、政宗は秀宗を勘当し、老中・土井利勝に宇和島藩の返上を申し入れるほどでした。結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会します。
 
その場で秀宗は、長男であるにもかかわらず仙台藩の家督を嗣(つ)げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを洗いざらい話します。
 
政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれました。これをきっかけとして親子の関係は修復され良好になり、勘当が解けてから、政宗と秀宗の仲は親密になり、和歌を交歓したりしました。
 
政宗から贈られた『唐物小茄子茶入』や秘蔵の伽羅の名香『柴舟』などが宇和島藩伊達家の家宝として秘蔵されており、宇和島市立伊達博物館の企画展・特別展で見ることができるそうです。
 
仙台藩と宇和島藩
 宇和島城(築城の一人者・藤堂高虎の築城)
 宇和島名産・じゃこ天(道の駅 津島やすらぎの里にて)
湾の風景

2017.12.05
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