レポート   ・カラヴァッジョ 〜 光と闇の天才画家   
− カラヴァッジョ 〜 光と闇の天才画家 −
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロを三大巨匠とする14世紀〜16世紀のルネサンス時代から、時はバロック時代(16世紀末〜17世紀初頭)へ。しかし、絵画の世界はルネサンスの多大な影響力から抜け出せずにいました。
 
そこに登場し、『強烈な光と陰の明暗法』と『徹底した写実主義』によって、革命的に新しいスタイルを確立したのが、イタリアの画家・カラヴァッジョ(Caravaggio)でした。
 
オランダのレンブラント、フェルメール、フランスのルーベンス、ラ・トゥール、スペインのベラスケスなど、バロック絵画を代表する画家のほとんどに影響を与え、イタリアの誇る天才画家あるいは西洋絵画の巨匠などと称されています[1][2]。
 
1571年、イタリアのミラノ生まれ。本名はミケランジェロ・メリージ。しかしミラノにペストが流行すると、一家はそれを避けて、ミラノから東へ約30kmのところにあるカラヴァッジョという村に移住しました。
 
彼の『カラヴァッジョ』という通称は、この村の地名に由来しますが、一説にはすでに、あまりにも有名になった同名の画家ミケランジェロ(ミケランジェロ・ブオナローティ)が存在していたため雅号をつけたともいわれます。
 
ミラノで画家の修行を積んだ後、21歳の時にローマへ移りますが、これは、おそらく『喧嘩』で役人を負傷させ、ミラノを飛び出し、着の身、着のままの無一文でローマへ逃げ込んだのであろうと思われます[3]。
 
ローマでジュゼッペ・チェーザリの工房に入って助手を務め、画家としての技量を知られるようになります。この時期に制作した作品に『果物籠を持つ少年』『果物籠』『バッカス』などがあります。

   

『果物籠』
(1595年 - 1596年頃)アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)
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この絵は、イタリアでもっとも早い時期の静物画であるだけでなく、もっとも優れた静物画だといわれます。総てにおいて細部まで神経を行き届かせて描き上げられていて、これはカラヴァッジョの革新的な写実主義のマニフェスト(声明文、宣言書)に他なりません[2]。
 
その後、チェーザリの工房から解雇され、独立した画家として生計を立てることを決意したカラヴァッジョは、1600年に枢機卿に依頼され『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』を完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となります。
 
極端ともいえる自然主義に貫かれた絵画には、印象的な人体表現と、演劇の一場面を彷彿とさせるような、強烈な明暗法が使用されています[3]。
 
 
『聖マタイの召命』
(1599年 - 1600年)サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂
(ローマ)拡大画像を見る
 
カラヴァッジョは、画家としての生涯で、絵画制作の注文不足やパトロンの欠如などを経験したことはなく、金銭面で困ったことはありませんでした。しかし、その暮らしは、本来の気性の激しさから順風満帆なものではありませんでした。1601年頃から暴行傷害、器物破壊、武器不法所持、名誉棄損、公務執行妨害など、犯罪記録が頻発するようになります[1]。
 
1604年に発行された、カラヴァッジョに関して書かれた最初の出版物によると、カラヴァッジョの暮らしは、『二週間を絵画制作に費やすと、その後1か月あるいは2か月間は召使を引きつれて、剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった』という具合だったそうです。
 
そんな中で、1603年には、最も称賛された作品だと言われる『キリストの埋葬』を制作します
 
『キリストの埋葬』
(1602年 - 1603年)バチカン美術館(ローマ)
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カラヴァッジョは題材を目に見えるとおりに表現し、描く対象を理想化することなく欠点や短所すらもありのままに描き出しました。そのため、人物像を理想化して描かないことを声高に非難されたり、その徹底した写実主義が時に生々しすぎる死や殺害の残虐な光景を描き出して物議を醸したりしました。
 
1606年にはついに乱闘で若者を殺してしまい死刑判決が出されます。カラヴァッジョは有力者に多くのパトロンがいましたが、このときだけはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことができませんでした。
 
殺人犯として指名手配され、懸賞金をかけられると、ローマを逃げ出して、ローマの司法権が及ばないナポリへ行き、有力貴族のコロンナ家の庇護を受けます。ナポリに滞在中の1606年から1607年に『ロザリオの聖母』などを制作。主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与します。また、地元の画家に大きな影響を与え、『ナポリ派』の祖となりました。
 
 
『ロザリオの聖母』
(1607年)美術史美術館(ウィーン) 
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ナポリでも成功を収めたものの、数か月後には、マルタ騎士団の騎士団総長の庇護を求めて、マルタ島へ渡り、『聖ヨハネの斬首』などを描きます。騎士号を得た直後、高位の騎士を仲間と共に襲撃し投獄されますが、脱獄して今度はシチリア島へ逃走。
 
カラヴァッジョは、旅先の各都市でも画家としての名声を勝ち取り、多額の謝礼を伴う絵画制作の依頼を受けたため、この旅はいわば大名旅行ともいえる贅沢なものだったそうです[1]。シチリア時代の作品に『聖ルチアの埋葬』などがあります。
 
シチリアに9か月滞在した後に再びナポリへと戻りますが、居酒屋で何者かに襲われ顔に重傷を負います。命に別状はなく『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』や『ゴリアテの首を持つダビデ』などを制作。
 
1610年の夏、奔走してくれたローマの有力者たちのおかげで近々発布される予定だった恩赦を受けるためにローマへの帰路の途中、熱病のため死去。38歳でした。
 
 ― 自画像 ―
 
カラヴァッジョは、いくつかの作品に自分の顔(肖像画)を描き込んでいます。例えば、『ゴリアテの首を持つダビデ』は、若きダビデが不思議な悲しみの表情で巨人ゴリアテの切断された頭部を見つめている作品ですが、この絵画に描かれているゴリアテの頭部はカラヴァッジョ自身の自画像であるといわれます。
 
『ゴリアテの首を持つダビデ』
(1609年-1610年)ボルゲーゼ美術館(ローマ)
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 ― カラヴァジェスティ ―
 
1600年にコンタレッリ礼拝堂に納められた『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』は、ローマの若手芸術家の間で大評判になり、カラヴァッジョは野心的な若手画家たちの目標となったといわれます。カラヴァッジョの絵画を研究し、その作風を真似た追随者はカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれるそうです[1]。
 
カラヴァッジョを題材とした大衆文化作品に、1986年のイギリス映画、2007年にイタリアで放送された全2話のテレビ・ミニシリーズ(日本では2010年に1本の映画作品として公開された)、2008年にベルリン国立バレエ団により発表されたバレエ作品などがあります。
 
 
オッタヴィオ・レオーニが
描いたカラヴァッジョの肖像画
(1621年頃)
【参考サイトおよび文献】
[1]ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ-Wikipedia
[2]『カラヴァッジョ巡礼〈とんぼの本〉』宮下規久朗・著
   (新潮社、2010年)
[3]『カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇』宮下規久朗・著
   (角川選書、2007年)
 
【画像の引用について】
本レポート中、リンクの形で引用した5つの画像(果物籠、聖マタイの召命、キリストの埋葬、ロザリオの聖母、ゴリアテの首を持つダビデ、カラヴァッジョの肖像画)は、『ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ - Wikipedia』からお借りしました。
 

2014.10.15
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