レポート  ・ボンタンアメと兵六餅   
− ボンタンアメと兵六餅 −
− 昔のまま残っているのは、二軒おいて隣りの、どういう偶然なのか、うちと苗字が反対の田向さんというお宅と、坂の下にあって、これも鹿児島名物のボンタン飴と兵六餅を買いにいったお菓子屋だけであった。 −
  
と、向田邦子さんのエッセイ『鹿児島感傷旅行』(『眠る盃』収録)にも出てくるボンタンアメ(大正15年製造開始)と兵六餅(昭和6年製造開始)は、鹿児島市にあるセイカ食品株式会社が製造・販売する飴菓子です。まず、ボンタンアメと兵六餅の写真をご覧下さい。
  
・ボンタンアメと兵六餅の写真を見る
→ http://washimo-web.jp/Information/Bontan&Hyouroku.htm
  
製造開始から約80年、当初のままのデザインパッケージと風味で、現在も九州地方を中心に日本全国で売られています。ロングランで愛されている商品には、やはり語り継がれているエビソードがあるものです。ボンタンアメと兵六餅にまつわるエピソードの紹介です(詳しくはセイカ食品のホームページに掲載されています)。
  
セイカ食品は、前身である鹿児島菓子(株)時代に水飴製造業を営んでいましたが、水飴が売れなくなります。そんなとき、水飴で作った朝鮮飴(熊本の郷土菓子で、文禄・慶長の役に出兵の際、加藤清正の軍が城中の兵糧として携行したことからその名がある)を工場の社員がハサミで細かく切って遊んでいるのを創業社長が目にします。
  
それにヒントを得て、ひと口に食べられる形の粒にして作り出されたのがボンタンアメでした。餅に水飴を練り込み、鹿児島県は阿久根産のボンタン(文旦、ぶんたん)の果汁を添加したもので、包み紙にオブラート(馬鈴薯・かんしょ澱粉でつくられたシート)を使用しているため、包み紙ごと食べられます。もちもちした食感と、甘さの奥にほんのり香るボンタンの風味が特徴的です。
  
セイカ食品は、昭和3年(1928年)に、払下げの軍用機を買って空からボンタンアメをまいて宣伝しようという計画を立てます。宣伝課長と総務課長が飛行機受領のため上京することになり、鹿児島市にある鶴鳴館というホテルで盛大な壮行会を行い、新聞でも大々的に報道されたそうです。
  
しかし、上京したものの飛行機代の5千円(当時、銀行員の初任給が70円)が折からの不景気で都合がつかずに実現するに至りませんでしたが、『(前評判で)世間が騒いでくれたんだから飛んだも同じだ』と創業社長は豪放に笑い飛ばしたそうです。
  
一方、兵六餅は、ボンタンアメ同様の食感と白あん・きな粉・海苔粉・抹茶の織りなす風味が特徴的な飴で、セイカ食品の創業社長が鹿児島の郷土文学の『大石兵六夢物語』(毛利正直著)にちなんで創作したものです。
  
大石兵六夢物語の舞台は鹿児島。狐に化かされ坊主にされる者が多いという話題を耳にした主人公の大石兵六は一人、退治に出かけます。しかし、これを聴き知った妖狐どもは、様々な妖怪に化けて兵六を脅かし、結局兵六は坊主にされ、失意のうちにようやく2匹の狐だけを捕らえることに成功します。
  
いわば薩摩のドン・キホーテ物語で、主人公の大石兵六が、あの忠臣蔵の大石内蔵助の子孫だというのも面白いです。兵六餅の箱に描かれている浮世絵風のイラストは、妖怪退治に出かける大石兵六の姿を描いたものです。
  
セイカ食品は、戦争で中断されていた兵六餅の販売を昭和24年(1949年)に再開させますが、なにせ米軍政下のこと、兵六が腰に日本刀をさしているパッケージのデザインが問題になるのではないかと危惧します。そこで、米軍政事務所に行き、兵六物語は決して好戦的なものでなく、ユーモアな物語で、昔の武士はみんな刀をさしていたのだと弁解します。
  
そうすると『それはわかった。刀はよろしい。しかし、おしりの丸出しがよくない。パンツをはかせろ。その条件で許可する』といわれたそうです。これには、さすがにびっくりしますが、そこは機転を利かせて、『ふんどしは、”ジャパニーズパンツ”である。隠すべき所はちゃんと被(おお)ってある』と説明したところ、発売が許可され、現在に至っているということです。
  
【参考サイト】
本レポートは、セイカ食品株式会社のホームページを参考にして書きました。→ http://www.seikafoods.jp/
 

2009.12.23  
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