レポート  ・ ブータン農業の父・西岡京治   
− ブータン農業の父・西岡京治 −
国民の心理的な幸せなどを指標とする『国民総幸福量』(GNH)を重視する国として知られるブータン王国で働く知人から、ブータンの写真をたくさん送ってもらって『写真寄稿』という形で、それらをホームページにアップロードし始めたのは、4年前の2012年1月のことでした。
 
両側から山裾が迫る中を流れる川、その両側の棚田に稲穂が稔りつつあるブータンの農村風景は、ほとんど違和感を感じさせない、日本の農村の原風景を思い起こさせるものでした。そして、『ブータン農業の父』と呼ばれた西岡京治という人の存在を知りました。最近、動画を見つけましたのでまずご覧下さい。
 
西岡京治(にしおか けいじ)
 
1933年(昭和8年)2月14日〜1992年(平成4年)3月21日)。海外技術協力事業団に所属して活動した日本人農業指導者、植物学者。ブータンの農業の発展に大きく貢献し、『ブータン農業の父』といわれる。ブータン国王から『最高に優れた人』を意味する『ダショー』の称号を贈られ、現地ではダショー・ニシオカとも呼ばれる。
 
年表・年譜
 
日本統治時代の朝鮮の京城(現・ソウル)で、解剖学者の西岡辰蔵・利恵夫妻の長男として生まれる。第二次世界大戦後、日本に帰国して大阪府八尾市に移住する。大阪府立八尾高等学校卒業後、大阪府立大学農学部(現・生命環境科学部)に進学。部活動は海外農業研究会に所属していた。
 
大阪府立大学大学院農学研究科に進み、中尾佐助に師事する。大阪市立大学大学院理学研究科研究生として川喜田二郎の薫陶を受ける。1958年(昭和33年)、川喜田を隊長とする大阪市立大学西北ネパール学術調査隊に参加し、このとき、二条大麦および六条大麦の野生種を発見する。この発見は、大麦栽培史の空白部分を補完する重要な学術業績となった。
 
1961年(昭和36年)、大阪府立園芸高等学校教諭になる。生涯の伴侶となる里子と結婚。1962年(昭和37年)大阪府立大学東北ネパール学術探検隊に副隊長として参加。1964年(昭和39年)、ブータンに、海外技術協力事業団(現・国際協力機構)のコロンボ・プランの農業指導者として夫人とともに赴任。
 
赴任当初は、インド人が大半を占める農業局から冷遇を受け、試験農場すらまともに用意されなかったという。そのような中、28年間にわたって日本から導入した野菜の栽培および品種改良、荒地の開墾など、ブータンの農業振興に尽力する。西岡の振興策は援助側の一方的な施策の押し付けではなく、現地の実状に即した漸進的なものであった。
 
このため、成果の確実性と定着性において他に例を見ないほどの成功を収め、農法にとどまらず産業・生活の基盤改善に大きく寄与した。ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王から『国の恩人』として、民間人に贈られる最高の爵位である『ダショー』を授かり、同国において唯一にして史上初の外国人受爵者となった。
 
1992年(平成4年)、帰国直前の3月21日、敗血症に罹り、ブータンにて死去した。59歳だった。同年3月26日、ブータン王室およびブータン政府によって西岡京治の国葬が執り行われ、遺体は夫人の意向に従ってパロ盆地が見渡せる丘にある葬儀場に埋葬された。〜 以上、西岡京治 − Wikipedia から転載。
 
備考】
ブータンについては、下記のアドレスから『写真寄稿』『レポート、コラム』がご覧頂けます。
 ・特集 ブータン−目次(INDEX)
     → 
http://washimo-web.jp/Bhutan/BhutanIndex.htm
 

2016.04.13
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