レポート  ・ベルツ博士   
 
− ベルツ博士 −
石段街の温泉場として知られる群馬県渋川市の伊香保温泉。 365段の石段を登り詰めると神社があり、そこを横にそれてさらに進むと奥まったところに朱塗りの橋があります。紅葉の名所という、この河鹿(かじか)橋には、今は、夏紅葉が風情よく覆いかぶさっていて、これもまた絵になる景色でした。
 
この界隈は湯元通りと呼ばれています。つまり、河鹿橋からすぐ上流に伊香保温泉の源泉があり、その一角に『若き日のベルツ博士の胸像』が建てられていて、次のようにあります。
 
〜 ベルツ博士は日本温泉医学の父であり、わが伊香保温泉にとって大恩人であります。明治初期(1870年代)数多い日本の温泉のなかで博士に第一番に系統的指導を受けたのが伊香保温泉であり、この時の指導内容が日本鉱泉論として発表され日本温泉医学の原典になっておりますことは当町の最も誇りとするところであります。 〜
 
また、ベルツ博士は、明治11年(1878年)頃より草津温泉を訪れるようになり、『草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう』と評価し、草津温泉を世界に紹介しました。
 
草津町では、ベルツ博士の功績をたたえ後世に伝えるために、町制施行 100周年にあたる平成12年(2000年)に『ベルツ記念館』を創設しました。ベルツ博士の軌跡や草津温泉との関係を物語る資料、ベルツ博士の遺品などが展示されています。
 
エルヴィン・フォン・ベルツ(1849 〜 1913年
 
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽力。滞日は29年に及びました。
 
 1849年 南ドイツのビーティッヒハイム=ビッシンゲンで生まれる。
 1866年 テュービンゲン大学医学部に入学。1869年にライプツィヒ大学に
     転学して内科を修める。
 1870年 軍医として普仏戦争に従軍。
 1875年 ライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生相良玄貞をたまたま治
     療することになり、日本との縁が生まれる。
 
 1876年(明治9年) お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)
     の教師に招かれる。
 1881年(明治14年) 東海道御油宿(現愛知県豊川市)戸田屋のハナコと結婚。
 1902年(明治35年) 東京大学退官、宮内省侍医を務める。
 
 1905年(明治38年) 旭日大綬章を受賞。夫人とともにドイツへ帰国。熱帯医
     学会会長、人類学会東洋部長などを務める。
 1913年 ドイツ帝国のシュトゥットガルトにて死去(64歳没)。
 
                  (以上、経歴は、Wikipediaを参考)
 
ベルツ博士の日記や手紙を編集した『ベルツの日記(上下)』(ベルツ編、菅沼龍太郎訳、岩波文庫、1979年)には、当時の西洋人から見た明治時代初期の日本の様子が詳細にわたって描写されています。そのうち、来日当初に書かれた家族宛の手紙には、明治時代初期の日本が西洋文明を取り入れるときの様子が述べられていて興味深いです。以下に、Wikipedia より転載させてもらいます。
 
                (1)
 
日本国民は、10年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの化発展に要した 500年あまりの期間を飛び越えて、19世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている。
 
                (2)
 
このような大跳躍の場合、多くの物事は逆手にとられ、西洋の思想はなおさらのこと、その生活様式を誤解して受け入れ、とんでもない間違いが起こりやすいものだ。このような当然のことに辟易してはならない。
 
ところが、古いものから新しいものへと移りわたる道を日本人に教えるために招聘された者たちまで、このことに無理解である。一部のものは日本の全てをこき下ろし、また別のものは、日本の取り入れる全てを賞賛する。われわれ外国人教師がやるべきことは、日本人に対し助力するだけでなく、助言することなのだ。
 
                (3)
 
不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。『いや、なにもかもすべて野蛮でした』、『われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです』という日本人さえいる。
 
このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。
 
                (4)
 
日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。
 
                (5)
 
日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。

  2014.07.16
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