レポート | ・安里屋ユンタ |
− 安里屋ユンタ −
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(1) 代表的な沖縄民謡である『安里屋(あさどや)ユンタ』は皆さんもご存知だと思います。ときは今から約 270年前の江戸時代中期。琉球は、対外的には独立した王国として存在していましたが、実質的には薩摩藩の支配下にあり、農民は薩摩藩への献上と首里王府への貢納の二重課税に苦しんでいました。 八重山の各島にも首里から役人が派遣され、穀物や織物などの貢納物を厳しく取り立てます。役人には、与人(ゆんちゅ)と目差主(みざししゅ)などの階級がありました。与人は、今でいえば村長の役で、目差主は村長を補佐する助役のような役でした。 民謡『安里屋ユンタ』は、首里から派遣されてきた目差主が、八重山諸島竹富島の安里屋クヤマという絶世の美女に一目惚れし、賄い女(現地妻)になるようプロポーズするものの、肘鉄を喰らわせれるように断わられたことから始まる物語を歌った民謡です。 1.サァ 安里屋ぬ クヤマによ サーユイユイ あん美(ちゅ)らさ うん生(ま)りばしよ マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ 2.サァ 目差主(みざししゅ)ぬ 請(く)ゆだらよ サァユイユイ あたろ親(や)ぬ 望(ぬず)むたよ マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ 3.サァ 目差主や 我(ば)なんばよ サァユイユイ あたろ親(や)や 此(く)りゃおいすよ マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ 3番までを意訳するとつぎにような意味です。 安里屋のクヤマは、素敵な美人に生れたことよ〜♪ 目差主に見染められ、村の親に当たる村長(与人)にも 望まれてよ〜♪ 目差主は私は嫌だよ。与人のところにご奉公させて〜♪ つまり、目差主だけでなく、与人も自分を望んでいると知ったクマヤは、『私は与人の賄い女になります。目差主はいやです』といって、目差主を振ったのです。なお、『マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ』という掛け声は、八重山方言の古語で、『また逢いましょう、美しき人よ』の意であるとされますが、インドネシア語で『太陽は我らを等しく愛する』の意味も込められている、との説もあるそうです[1] 当時役人は3年勤務の交代制で派遣され、勤務地へ妻子を同伴することは禁じられていました。勤務地では、器量容姿のすぐれた女性を村で選び出し、賄い女(現地妻)として役人に差し出す習慣がありました。 娘が賄い女になると、年貢を免除されたり、財産を貰えたりするので、重い人頭税に苦しめられていた人々の中には、自分の娘を賄い女にしたいと思う者も多く、また若い女性にとっては羨望の的でした[2]。 目差主と与人を両天秤にかけ、与人をとったクマヤが浅ましく思われますが、そういう時代背景がありました。 安里屋クヤマ(1722〜1799年)は、実在の人物で、実際に16歳のときに与人の賄い女になり、与人が転任の際、記念として村きっての一等地に三反二畝の土地を与えられたといわれます[2]。 クヤマは、大変働き者で、弟の筑登之と働き勝負をしながら安里屋の家の石垣を積みあげたといわれています。与人が島を去った後一生独身で暮したため、子どもはなく、島の貧しい家の子どもたちの面倒を見た聖女として今なお伝えられているそうです[3]。 国の重要伝統的建造物群保存地区(島の農村集落)に指定されている竹富島の町並みの一角に、クヤマの生誕の家が今も現存していて、毎年旧暦の元旦の週の日曜日には、島内や石垣島から安里家一門が集まり、クヤマの遺徳を偲ぶ『クヤマ大祭』が行なわれているそうです[4]。 さて、民謡『安里屋ユンタ』は、3番で終るのでなく、23番まであります。肘鉄を喰らわせれるように振られた目差主は、4番以降、腹いせに他の美女を探しに奔走することになります。 (2) 民謡『安里屋ユンタ』は、首里から派遣されてきた目差主(みざししゅ、村の助役)が、八重山諸島竹富島の安里屋クヤマという絶世の美女に一目惚れし、賄い女(現地妻)になるよう言い寄るものの、肘鉄を喰らわせれるように断わられたことから始まる物語を歌った民謡です。 『目差主はいやです。私は与人(ゆんちゅ、村長)の賄い女になります。』といわれて、クヤマに振られた目差主は気がおさまりません。『安里屋ユンタ』は、4番以降、クヤマの鼻柱をへし折ってやろうと、他の美女探しに奔走する目差主の様子を物語風に歌います。歌詞の4番から19番までのあらすじはつぎのようです。 他の村に走って行って美女探しを始めた目差主は、詮索の途中でイシケマという、これもまた絶世の美女に出会い、その喜びようは飛び上がらんばかりです。早速、彼女の家に行って親に『私の賄い女にくれないか』と訊くと、『それほどまでにお望みとあらば、どうぞ』と答えるので、目差主はイシケマを掻き抱き、喜び勇んで宙を飛ぶようにして助役宿舎に帰って行きました。 目差主は、連れ戻ったイシケマを早速宿舎の奥座敷へ通し祝杯をあげようと杯台をとらせると、いかにも作法正しく、お酌の所作もなかなか上品で、八つ折屏風の中で二人は比翼連理の夢を結ぶのでした。かくして、クヤマの鼻柱をへし折ってやろうという目差主の思いは、目出度く遂げられました。 安里屋ユンタの『ユンタ』とは、沖縄県八重山諸島において、農作業など日常生活の場で無伴奏で歌われていた歌で、男女の集団に分かれ、1句ずつ交互に代わりながら対句を重ねて歌う歌でした。 『安里屋ユンタ』は、上述の19番までの歌詞が示すように、安里屋クヤマを主人公とした物語ではなく、主人公はむしろクヤマに袖にされた目差主なのです。すなわち、歌われているのは、島の美人に言い寄って断られた役人が、血眼になって他の美人を探し求める滑稽な姿です。 つまり、『安里屋ユンタ』は、農民の権力者に対するささやかな抵抗の歌であり、歌うことによって、農民たちは労働のつらさを癒し、役人に対する日頃の鬱憤(うっぷん)をいくらかでも晴らしたのに違いありません。そして、笑いを含んで性をおおらかに歌う性歌謡でもありました。 20. 八折屏風ぬ なかなんが 絵書き屏風ぬ 内なんか 21.腕やらし 寝びどぅしょうる 股やらし ゆくいどぅしょうる 22.男な子ん くぬみどぅしょうる 女な子ん 作りどぅしょうる 23.男な子や 島持ち生りばし 女な子や 家持ち生りばし 『八折屏風の中で、絵画屏風の内で、腕を組んで寝むった、股を交叉してやすまれた。男の子も宿らせるように、女の子もできるように。男の子なら島の統治者に、女の子なら良妻賢母に生まれるように』と歌います。 さて、『安里屋ユンタ』には、竹富島で唄われている本来のものほかに、石垣島で唄われていたバージョンがあり、そして、現在最もよく知られ、最もよく歌われている『新・安里屋ユンタ』があります。石垣島バージョンは、クヤマが目差主を振ってしまう理由が『後のことを考えれば、やっぱり島の男がいい』という内容の歌詞です。石垣島では、この歌詞の方が受けが良かったのでしょうか。 サー君は野中のいばらの花か サーヨイヨイ 暮れて帰ればヤレホンニ引き止める マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ で始まる『新・安里屋ユンタ』(通常は、単に、『安里屋ユンタ』と呼ばれる)は、1934年(昭和9年)に作られた『新民謡』で、コロムビアレコードが標準語による沖縄民謡の普及版として企画したものでした。本来の『安里屋ユンタ』とは全くことなる歌詞で、現地妻をめぐる物語は、さわやかな男女の甘い恋物語に変わっています。 1940年(昭和15年)に日本劇場の公演で、第一次世界大戦中の女スパイとして有名な『マタ・ハリ』に引っ掛けて、囃し言葉の『マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ』を、『マタハーリの死んだら神様よ』と言い替えて歌ったところ、これが評判になったそうです。また、太平洋戦争が始まると、兵士たちの間に『死んだら神様よ』が共感を呼び、全国的に広がったそうです。 八重山諸島を旅すると、由布島や竹富島の水牛車の御者が、サンシン(三線)を引きながら『安里屋ユンタ』を歌って聴かせます。聴く機会があったら、本来の『安里屋ユンタ』なのか、『新・安里屋ユンタ』なのか注意して聴いてみて下さい。 YouTubeで、安里屋ユンタ(ただし、新民謡の安里屋ユンタ)を聴いてみましょう。 ・『安里屋ユンタ by The NENES』 → http://www.youtube.com/watch?v=YhtXZAFom7A 【参考にしたサイト】 [1]フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 [2]鳥塚義和:安里屋ユンタ−古謡はどのように伝承されているか → http://oecc.open.ed.jp/cdrom/reppdf/rep14.pdf [3]〜 竹富島ウェブログ 〜 : 安里屋ユンタ → http://www.taketomijima.jp/blog/archives/000841.html [4]〜 竹富島ウェブログ 〜 : クヤマ大祭 → http://www.taketomijima.jp/blog/archives/000666.html |
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2010.02.03 | ||||
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