雑感  ・上野(あがの)焼   
− 上野(あがの)焼 −

ドイツ〜スイス〜パリ旅行の余韻から覚め遣らぬ中で、カメラのファインダを通して見る日本の風景は、ヨーロッパのこじんまりした瀟洒(しょうしゃ)な家々や統一された赤褐色の切妻屋根の街並み、塵ひとつ落ちていない道路などの風景と比べたら、どうしても雑然として映って仕方ありません。


そんな中で、自国の文化への興味を新たにさせてくれたのが、今春の3月に撮っておいた上野(あがの)焼の陶器の写真と小堀宗実(そうじつ)・著「茶の湯の不思議」(NHK出版)という本でした。上野焼は、小倉から20数km南下した福岡県田川郡赤池町にその窯場があります。


慶長7年(1602年)、豊前小倉藩主・細川忠興(ただおき)候は、朝鮮の陶工・尊階(そんかい)を上野に招き開窯させます。これが上野焼の始まりでした。忠興候は号を三斎(さんさい)といい、利休七哲(りきゅうしちてつ)と呼ばれる千利休の7人の高弟の中でも、最も利休に近いと自他ともに認めるほどの茶人でした。


尊階は地名にちなんで上野喜蔵高国と名を改め、三斎の指導によって、三斎好みの格調高い茶陶を30年間にわたって作り続けました。その後、尊楷は細川氏の国替えに従って、寛永9年(1632年)に肥後熊本へ移り、八代(やつしろ)で高田(こうだ)焼を興しますが、二男の十時孫左衛門と四男の渡久左衛門が上野に残り、新藩主となった小笠原家のもとで上野焼を焼き続けました。上野では現在、十時窯と渡窯のほかに、27の窯元が窯を開いています。


江戸時代の茶人小堀遠州が選定した遠州七窯の一つにも数えられ、茶陶として発展してきた上野焼は、軽くて、薄づくりであるという特徴を持っています。そんな上野焼を訪ねてみたいとずっと思っていたものの延び延びになっていました。5年間の単身赴任生活に終止符を打って鹿児島に帰郷する数日前になってやっと訪問することになりました。


田川市に住む大学時代からの旧友にわざわざ案内してもらって渡窯を訪ねました。十一代渡久兵衛さんとご子息の渡仁さんにもお目にかかれ、作品展示室を見させて頂きました。そして旧友には、贐(はなむけ)に、明るい温かみのある渡久兵衛さん作の湯呑と小堀宗実さんの本をプレゼントしてもらったのです。


展示室で撮らせてもらった伊羅保(イラボ)の焼き物の写真を何枚かホームページにアップロードしましたのでご覧下さい。


 ◆旅行記 ・上野(あがの)焼を訪ねて−福岡県赤池町上野
      → http://washimo.web.infoseek.co.jp/Trip/Agano/agano.htm


何十年も使い古したようなしぶさのなかに、モダンさと上品さが漂っていて、とてもいいと思います。


室町時代の後期、単にいただくだけの行為だった茶の湯に、禅の精神性を取り入れて道をつくったのが茶祖とよばれる村田珠光(むらたしゅこう)でした。さらに、武野紹鷗(たけのじょうおう)が連歌や和歌の美意識を取り入れ、茶聖・千利休によって「わび茶」という一つの形が大成されました。


一切の無駄を省いた利休の茶の湯は、その根底に流れる「わび・さび」を追求した非常に精神性の高いものだったといわれます。利休亡きあと、天下一の茶の湯の宗匠となったのが古田織部(ふるたおりべ)でしたが、精神面で利休の域に達することが不可能だと自覚した織部は、利休とはまったく違う茶の湯を表現します。茶会で使われたのは、形のゆがんだ、きわめて造形性の強い瀬戸茶碗で、「ヘウゲモノ茶碗」(ひょうきんな茶碗)とよばれたそうです。


大阪の陣の後、世の中が平和になり、人心も安定を願い、文化に目を向けるようになった時代に活躍した茶人が徳川家茶道指南役・小堀遠州(こぼりえんしゅう)でした。遠州は、精神的には利休や織部を継承しながらも、窓が多くて明るく広々とした茶室で綺麗で気品のある白い茶碗を使いました。その茶風から、遠州の茶は「綺麗さび」とよばれています。


幕府の作事奉行でもあった遠州は、多くの名園や茶席を残す一方、茶道具の鑑定にも優れ、遠州が鑑識したものは「中興名物」と称されています。遠州は、好みの茶器を作るために全国七ヶ所の窯元を選定しました。これが遠州七窯です。


遠江(静岡県)の志戸呂(しとろ)焼、近江(滋賀県)の膳所(ぜぜ)焼、山城(京都府)の朝日(あさひ)焼、大和(奈良県)の赤膚(あかはだ)焼、摂津(大阪府)の古曾部(こそべ)焼、筑前(福岡県)の高取(たかとり)焼、そして豊前(福岡県)の上野(あがの)焼です。上野焼は、そんな遠州に好まれた焼き物でした。


厳しい精神性を追求した利休の究極の茶室は二畳の茶室だったそうです。その茶室の入口は、躙口(にじりぐち)とよばれる縦横66cmの小さなものでした。躙口は、緊密で狭小な空間を幾何学的に乱さないよう工夫された入口であるとともに、茶室を雑然とした日常性から切り離し、武士には刀を外させ、誰もが低頭して同じ入口から入らせる意味を持っているのだそうです。徹底的に装飾性を排除し、明かり窓のない、茶入や茶碗が求心力の強い黒一色の茶室で、亭主と客が対峙します。


海外の国々の圧倒されるような建造物や景色、美術・芸術などに接してみたいという外への憧れると同時に、それらとは対照的な、二畳という極小の空間に無限の宇宙を見つめる文化、極小にして簡素であることの美しさ、そんな日本の文化や美意識に今更ながら興味を新たにした次第です。


【備考】
・小堀宗実・著「茶の湯の不思議」(NHK出版)を参考にしました。
 下記のページに書籍紹介があります。
         → http://www.washimo.jp/BookGuide/BookGuide4.htm


・豊前小倉藩主・細川忠興候については、下記のサイトが参考になります。
 『旅行記 ・宮本武蔵の史跡(2) − 小倉』
         → http://www.washimo.jp/Trip/musashi/kokura.htm




【補遺】
この雑感をお読み頂いて、大阪にお住まいの I さんから、次のようなコメントを頂きました。


『お茶の一期一会的な対面形式は、禅の影響を強く受けているのは明らかですが、キリスト教の影響もあるのではないかとの説も思い出しました。最後の晩餐における、ワインを血の契りのシルシとして扱うやり方とかが似ているというわけです。こうなるとドイツなど騎士団の有り様と共通するものがある可能性が出てきて、興味がつきませんね。』


そこで、「茶の湯 キリスト教」をキーワードにネット検索してみました。1700以上のページが検索されました。勉強不足でしたが、濃茶席で濃茶を同じ茶碗で飲み回す作法は、カリスと呼ばれる杯のぶどう酒を、列席者が飲み口を清めながら飲み回してゆくカトリックのミサ、プロテスタントの聖餐式の儀式に通じるところがあるなど、茶の湯とキリスト教はその本質において不思議な一致を見せているようです。


確かに、茶の湯は日本の文化ですが、その精神性や思想は必ずしも日本固有のものではないということになるでしょうか。そうだとすれば、雑感で書いている、『そんな日本の文化や美意識に今更ながら興味を新たにした次第です。』という部分は、当を得ているとは言い難いということになります。(WaShimo)

2004.05.29  
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