雑感  ・'13年頭雑感 〜 里山に育まれて   
− '13年頭雑感 〜 里山に育まれて −
著者が生まれ育った鹿児島県の北薩摩地方の農家は、多くが裏山を背にして家が建てられています。昭和40年(1965年)頃までは、その山に入って木の枯枝を集めたり、木を伐採して薪を割ったりして、竈(かまど)の煮炊きや風呂焚きなどの燃料にしていました。
 
山には適当な場所に畑がつくられており、野菜やサツマイモや大豆・小豆あるいは家畜の飼料などが栽培されていました。畑の脇や土手には柿、栗、ビワの木などが植わっています。山の落葉を利用して腐葉土をつくって肥料にし、山の木蔭には椎茸が栽培されていました。
 
山に入ったり畑に行き来したりするために、山には小道が作られ、山の木々は人が入りやすいよう適当に間伐され、下払いされていました。つまり、集落に隣接しているために人間の影響を受けた生態系が存在する、いわゆる里山(さとやま)が形成されていたのです。
 
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ところが、昭和50年(1975年)頃になると、農家でも家庭用燃料の化石燃料化が完了し、山に入って薪をとることがなくなりました。加えて、現金収入を得るため兼業農家の形態で勤めに出るようになると、山の畑を耕作したりする時間も必要も段々なくなっていきました。生活上の必要性が薄れ、人間の関与が失われて放置されるようになった里山では、藪(やぶ)化や竹林の拡大が進み、里山の崩壊が始まりました。
 
長い間私たちは、里山が崩壊してしまったことを意識さえすることもなく過ごしてきましたが、最近になって、その影響を思い知らされることになりました。今、農村部では全国的に、イノシシ、ニホンジカ、ニホンザルなどの有害鳥獣による被害に悩まされています。
 
かつて里山は、里山より標高の高い「ウチヤマ」「オクヤマ」「ダケ」といった、野生動物の生息領域と人間が住む集落(里)との緩衝地としての役割を果たしており、獣類が集落に接近しにくい環境が形成されていました。里山が崩壊して緩衝地としての役割が失われた結果、野生動物が集落や農地に出没しやすくなったのです。
 
里の農作物は、まとまったところに植えてあるので捕食しやすく、また栄養価が高く美味しいです。グルメな味を覚えるとそれに依存するようになります。繁殖率が高くなり個体数が増加し、里の味を覚えた親から生まれた子は、学習によって里の付近に定着するようになります。
 
山に近い田畑だけでなく、家の敷地内にある菜園にまで出没して農作物を食い荒らし回り、夜になると、ニホンジカやイノシシが子供を何頭も連れて国道を闊歩する有様です。鹿児島市では、昨年、繁華街の店にニホンザルやイノシシが出没して大騒ぎになったことがありました。
 
著者の住む鹿児島県さつま町では、鳥獣によろ農作物被害の防止対策事業として、電気柵の設置による侵入防止対策の奨励のほかに、イノシシとニホンジカには一頭当たり5千円と一万円、ニホンザルには一匹3万円の補殺報奨金を出すという制度が実施されています。証拠として、イノシシは尻尾を、ニホンジカは両耳を、ニホンザルは補殺した写真を持参します。
 
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里山は子供たちの遊び場でもありました。学校から帰ると畑に行って柿やビワをちぎり、秋になると山に入ってアケビをちぎって自給自足のおやつにしたものでした。木の上に櫓(やぐら)をつくって陣取り遊ぶをしたり、ヒヨドリやヤマバトを狙って、灌木仕掛けの罠(わな)をかけました。
 
父や母に連れられて、スイカちぎりやさつまいも掘りに出かけたのも里山をぬう小道を通ってでした。ヤマイモ(自然薯)掘りに連れて行ってもらうと、掘り上げるのに時間がかかって退屈したものでした。
 
そうした子供時代の里山のある生活が、”長短含めて”、著者の性格や感受性の育(はぐく)みの源泉であったに違いないと、60歳を過ぎた今になって一層気づかされるのです。
 
いま、山のかつての場所に行ってみても当時の里山の面影は見る影もなく、頭のなかで思い描くばかりの風景になってしまいました。里山の育みの環境は、私たちの世代の単なるノスタルジーに過ぎず、薪が必要でなくなったのと同じように、グローバル化の現代においては、必ずしも必要ないということでしょうが、せっかくの自然をもったいないなと思われてなりません。
 
全国各地に里山のような環境が少しでも多く残され、あるいは再生されて、望めばグリーン・ツーリズム(農山漁村地域において自然、文化、人々との交流を楽しむ滞在型の余暇活動)などを通じて体験できる場が提供されていったら良いなと思います。 

2013.01.02  
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