レポート | ・日本皇室との縁談相手とされたカイウラニ王女 | ![]() |
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- 日本皇室との縁談相手とされたカイウラニ王女 -
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長男家族、次男夫婦と共に3家族7人で2016年12月26日から同月31日まで過ごしたハワイの滞在先のホテルは、シェラトン・プリンセス・カイウラニでした。ワイキキの目抜き通りであるカラカウア大通りのほぼ中央にあります。 カラカウア大通りを隔てワイキキビーチがすぐという立地の大型ホテルで、その名前は、ハワイ王朝最後の王位後継者となったカイウラニ王女が幼少期を過ごした領地の跡地に建設されたことに由来します。 ハワイ王国・第7代国王カラカウアの妹・リケリケ王女を母に、スコットランド人を父として1875年に生まれます。生後すぐにカラカウア家へ養女に出され、早くから王家の次世代後継者と目されて、国民的人気も高かったですが、1899年、23歳で死去。 アメリカと在ハワイ米国人による政経両面に渡る圧力に悩まされていたカラカウア国王は、1881年来日して明治天皇と会談した際、姪のカイウラニと山階宮定麿王との縁談を申し込みます。 当時、山階宮定麿王13歳、カイウラニ5歳でした。この縁談によってハワイ王室と日本の皇室との結びつきを強くして、ハワイを併合しようとするアメリカの動きを抑え、ハワイ王国の存続を考えていたとされます。 しかし、明治天皇は『国力増強に努めている明治新政府にはそこまでの余力はない』として断りました。これは、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府の意図があったことによります。 カイウラニ13歳の1889年、カラカウア王の指示でイギリスに留学しますが、1891年にカラカウア王が渡米先のサンフランシスコで客死。王の妹のリリウオカラニ(カイウラニの叔母)が女王として即位すると、子供に恵まれなかったリリウオカラニ女王はカイウラニを王位継承権第1位に指名しました。 1893年、渡英4年が過ぎカイウラニが17歳になったとき、ハワイでは欧米系住民によるクーデターが起こりハワイ王国が滅亡します。カイウラニはすぐにアメリカ東海岸に渡り、グロバー・クリーブランドアメリカ大統領との面談に成功し、クーデターの不当性とを徹底調査を訴えました。 このとき、ニューヨーク港では、『野蛮なハワイ人の娘』が嘆願にやってくるらしいと新聞記者たちが待ち構えますが、カイウラニが現れるとそのたぐいまれな美貌とヨーロッパ仕込みの洗練された姿と感動的なスピーチに、記者たちは度肝を抜かれたといわれます。 ハワイに対するイメージは一新し、ニューヨークのマスコミは一気にハワイ王朝の味方になり、大統領も徹底調査する約束をしました。アメリカ調査団はクーデターを不当とし、リリウオカラニ女王に一度は政権が戻されますが、欧米系住民はそれをはねのけ、1893年にハワイ共和国を設立。鎮圧されたリリウオカラニは反逆罪で逮捕され、8ヶ月にわたってオラニ宮殿に幽閉されます。 22歳になった1897年、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国しました。ホノルル港は黒山の出迎えたそうです。しかし、1898年にアメリカは急遽ハワイを併合。そして、翌1899年、カイウラニは友人と乗馬を楽しんでいる途中嵐に遭い、風邪をこじらせ、23歳の若さでこの世を去りました。 彼女が亡くなった時、彼女が飼っていたクジャクがいっせいに鳴き叫び、何羽かが鳴きやまず、あまりの騒音にやむを得ず、その何羽かを処分しなければならないほどだったそうです。
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2017.01.27 | ||||
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