関の小万
福蔵寺 |
関宿の中町にある福蔵寺は、織田信長の三男、信孝の菩提寺。この境内の中に関の小万の墓があります。 |
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町指定史跡『関の小万之墓』 |
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♪関の小万が亀山通ひ
月に雪駄が二十五足
関の小万は若くして父の仇を討った烈女と伝えられる。
十五才から風雪にもめげず亀山の道場に通って修行に
つとめ、武を練り、天明三年八月本懐を遂げた。
享和三年没(妙証信女)
地蔵院前には小万の育った宿屋山田屋の跡が現存する。
小万の碑は当山境内にあり。
唄は鈴鹿馬子唄 |
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会津屋(旧山田屋) |
小万の生まれ育った宿屋『山田屋』は、関の地蔵院の前に会津屋として今もなお現存しています。 |
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関の小万 |
九州久留米藩の剣術指南役だった小万の父、牧藤左衛門は遺恨によって同輩の小林軍太夫に殺害されます。身重の妻は夫の仇を討とうと敵を追って鈴鹿峠を越えます。関宿まできてところ、地蔵院前で行き倒れになり、旅籠『山田屋』の主人・山田屋吉右衛門夫婦に助けられます。そこで、妻は女児(小万)を出産しますが、産後まもなく亡くなり、子供の将来を山田屋夫婦に託しました。山田屋夫婦の子として育てられた小万は、15歳のときに実母の遺言を伝え聞き、亡き母の志を継いで亡父の仇討ちを決心します。3年間武術の修行に励んだ小万は、天明3年(1783年)8月、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇を討ち、見事に本懐を遂げました。その後も山田屋にとどまり養父母に使えましたが、享和3年(1803年)に36歳で病死しました。 |
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