♪Prologue
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島原散策−長崎県島原市
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島原は、今から370年前の1637年、松倉勝家の苛政とキリシタン弾圧に抗して「島原の乱」が起こり、また1792年には、大地震による眉山(まゆやま)の崩壊によって住民に多数の犠牲者が出るという歴史を持っている半島です。また、1990年(平成2年)に起きた普賢岳噴火による火砕流災害は記憶に新しいところですが、豊かな湧水に恵まれた城下町島原はいま、町のいたるところに清流が流れ、落ち着いた静かな佇まいを見せています。区画整理された武家屋敷を走る水路の光景、藁葺きの武家屋敷の石垣に稔る柿の実、清流を泳ぐ鯉、紺碧の空に映える真っ白な島原城などが訪れる人々に和みを与えています。そんな島原の風景の一端をアップロードしました。                                 (旅した日 2005年11月)

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水路が走る武家屋敷
島原城の西に続く一帯に、鉄砲町と呼ばれていた武家屋敷跡があります。鉄砲町は島原城の築城とともに形成されたといわれ、鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、また隣家との間に塀(へい)がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くような屋敷街だったことからその名がつけられたと言われています。
7つの町筋は碁盤の目のように7つの町筋が走っていて、扶持(ふち)取り70石以下の徒士(かち)屋敷が690戸あったと言われます。町筋の中央を流れる用水路は、幅が70cmで廻りを石垣で固められており、長さが400mにも及びます。かつて飲料水として使われ、水奉行を置き、厳重に管理されていたそうです。


湧水〜鯉の泳ぐまち
島原市内の湧水の多くは、1792年の雲仙岳噴火に伴う群発地震による地殻変動によって誘発されたものといわれ、昭和60年(1985年)、環境庁から「島原湧水群」として日本名水百選に指定されました。写真は、新町にある四明荘と呼ばれる水屋敷・伊東邸内にある湧水池。
「鯉の泳ぐまち」は、この地域の町内会の人たちが町内を流れる清冽(せいれつ)な水路を生かしたまちづくりと子供たちの豊かな心を育てるために昭和53年(1978年)7月水路に鯉を放流したのが始まりです。その後、放流には町内会を中心に市や島原温泉観光協会、愛鯉会などの団体をはじめ多くの市民が協力し、水の都・島原を代表する名所になっています(観光案内板より)。写真左は、鯉の泳ぐ町の水路に放流されている鯉。写真右は、四明荘の庭園池を泳ぐ鯉。


島原城
島原はもとはキリシタン大名・有馬晴信の所領であり、キリスト教信仰の盛んな土地でしたが、禁教政策に伴い年有馬氏が転封となり、1616年に大和(奈良県)から松倉重政が入部してきます。島原城は、松倉重政が、1618年から7年余の歳月を費やして築いた城ですが、その築城がもたらした重税が島原の乱の発端になったといわれています。
島原の乱の責任を問われ、1638年に松倉氏が断絶後、高力氏・松平氏・戸田氏・松平氏と4氏19代253年間の居城でしたが、1874(明治7年)に廃城となり、民間に払い下げられ、以来、文字通りの荒城となっていましたが、1964年(昭和39年)に天守閣が復元されたのをはじめ櫓も復元され、次第に昔の面影がよみがえっています。城内にあるキリシタン史料館には、キリシタン大名有馬晴信時代に盛んであった南蛮貿易時代から、宣教、禁教、弾圧時代、そして島原の乱関連の資料が展示されています。


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