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旅行記 ・山寺(宝珠山立石寺) − 山形県山形市 2010.03.28
 山寺(宝珠山立石寺)
開山堂(右)と納経堂(左)
通称を『山寺』として知られる『宝珠山立石寺』(ほうじゅさん・りっしゃくじ)は、貞観2年(西暦860年)に慈覚大師によって開山された比叡山延暦寺の別院で、東北を代表する霊場として人々の信仰を集めてきました。奇岩が折り重なる山腹の杉木立を縫うように奥の院まで1015段の石段を上れば、途中に岩塔婆や石仏、お堂が点在しています。元禄2年(1689年)、俳聖・松尾芭蕉は奥の細道の旅中、山寺を訪れ、有名な閑さや岩にしみ入る蝉の声の句を詠みました。
根本中堂
本堂となる根本中堂(こんぽんちゅうどう)(写真上)は、延文元年(1356年)初代山形城主・斯波兼頼が再建した入母屋造5間4面の建物で、建立当時本山・比叡山延暦寺から移された『不滅の法灯』は、約1200年間、一度も消えることなく照らし続けています。
芭蕉句碑
 鐘楼
山寺の鐘楼(写真上)は、NHKの『ゆく年くる年』の除夜の鐘でお馴染みです。立石寺六十六世優田和尚が再建した鐘楼で、『招福の鐘』とも呼ばれています。大晦日には、根本中堂から山門の間にろうそくが灯され、光のロードとなります。
芭蕉像(中央奥)と曽良像(右手前)
根本中堂横にある閑さや岩にしみ入る蝉の声芭蕉句碑は、芭蕉の門人たちが嘉永6年(1853年)に建てたものです。秘宝舘前には、昭和47年(1972年)に芭蕉像が、平成元年(1988年)に曽良像が建立されました。
山門
山門(写真上)は、鎌倉時代末期の建立と伝えられ、『開北霊窟』の扁額が掲げられています。開山堂などへの登山口で、大仏殿のある奥之院までの石段は800段以上を数えます。
姥堂
ここから一つ一つ石段を登ることによって、欲望や汚れを消滅させてこの世のしがらみを捨て、明るく正しい人間になろうという意味合いのある場所です。ここから石段の両脇には、岩塔婆や石仏、お堂が点在します。
姥堂(うばどう)(写真左)は、奪衣婆の石像を本尊とし、ここより下は地獄、上は極楽の浄土口とされ、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着がえて極楽に登り、古い着物は堂内の奪衣婆に奉納するとされています。
石仏
四寸道
お山の自然にそってつくられた参道は、昔からの修行者の道で、一番狭いところは約14cmの四寸道(写真上)になっています。せみ塚(写真右)は、芭蕉翁の閑さや岩にしみ入る蝉の声の句をしたためた短冊をこの地に埋め、供養に石の塚をたてたものです。
せみ塚
弥陀洞では、そり立つ岩肌に彫られた板碑型の供養碑が頭上に迫ってきます(写真左)。これは岩塔婆といって、故人の供養のために彫られたもので、戒名が刻まれています。室町時代のものもあるそうです。
弥陀洞
仁王門
山門から奥之院までの中間点に位置する仁王門(写真上)は、嘉永元年(1848年)に再建されたけやき材の優美な門で、左右に安置された仁王像は運慶の弟子たちの作と伝えられています。邪心を持つ人は登ってはいけないと睨みつけています。
山壁に展開する寺院
絶壁の途中に建てられている建物は『胎内堂』(写真下)で、かつては『胎内くぐり』という数メートルの穴を這ってそこへ至っていましたが、現在は入洞禁止になっています。胎内くぐりは、もう一度生まれかわって立派な人間になろうというものです。
開山堂(右)と納経堂(左)
山寺の定番の風景といえるのが開山堂と納経堂(写真上)。開山堂は、立石寺を開いた慈覚大師の御廟で、『常香』が一千一百有余年絶えることなく今日もなお香煙を遷わしています。その左にある岩の上の赤い小さな堂は、写経を納める納経堂です。
胎内堂
納経堂と奇岩
山寺のてっぺんにある奥之院(写真下)は、正式には如法堂。開山・慈覚大師が、中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊としています。石墨草筆の写経道場で、明治5年に再建されました。左側の大仏殿には、像高5メートルの金色の阿弥陀如来像を安置し、毎日、卒塔婆供養を行っています。奥之院まで八百余段の石段を、一段一段登ることによって、煩悩が消滅され、幸福になれるといわれています。
山寺のてっぺん『奥の院』
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