♪トロイメライ(夢)
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旅行記 ・『鳥追舟』ゆかりの地 − 鹿児島県薩摩川内市  2011.05
    とりおいぶね 
能『鳥追舟』
能『鳥追舟』の里(九州新幹線・川内駅前)
『鳥追舟』(とりおいぶね)は、室町時代の謡曲師、金剛弥五郎の作といわれ、ここ川内(せんだい)が舞台となっています。川内の『日暮長者伝説』をもとに作られたもので、現在演じられる能の中で、薩摩国が舞台となっているのは、この『鳥追舟』のみです。『鳥追の杜』『母合橋』(ははあいばし)、『日暮岡』などのゆかりの地が、物語や登場人物を今も偲ばせています。平成16年2月吉日 〜能『鳥追舟』の里・碑文より
 
 ひぐらしおか
日暮岡
 母合橋付近から見る日暮岡
日暮岡の長者屋敷跡に立つ標識

一方、訴訟もようやく片づいた日暮殿は、喜び勇んで故郷に着くと、鳥追舟が多く出て鼓や羯鼓(かっこ)を打ち鳴らしていて賑やかです。そのうちの一艘に近づくと、何と舟に乗っているのは我が妻子ではありませんか。左近尉の仕打ちに日暮殿は立腹し、即座に切り捨てようとしますが、十数年間も不在だったあなた様にも責任があるという妻のとりなしで左近尉は許され、もとの平和な生活に立ち返るのでした。その後、花若が家を継ぎ、久しく栄えました。

 
というふうに、謡曲では『日暮長者伝説』と違ってハッピーエンドで終っています。
  謡曲(能の謡い)『鳥追舟』
あらすじ 
九州薩摩国日暮の里の当主、日暮殿は、訴訟のため都に上り十数年間帰って来ません。残された奥方と嫡子の花若は家人の左近尉(さこんのじょう)を頼りに生活しますが、左近尉は、花若に舟に乗って田に群がる鳥を追わせよと奥方に言いつけます。奥方は、そのようなことはさせられないと拒否しますが、今後一切面倒をみないと脅され、親子で舟に乗ることを了承します。年端もゆかぬ花若と母は、家人と立場の逆転した身を嘆きつつ、来る日も来る日も鳥追舟に乗り鳥を追い続けるのでした。
日暮長者屋敷跡への案内標識
 
ははあいばし
母合橋
(母逢いの渡し)
日暮岡から眺める母合橋。橋の掛かった隈之城川が川内川に流れ出ています。
母子の対面像(向田町側)
その間、左近尉とお熊は二人の姉弟にきつく命令し田に集る雀の群れを追わせました。来る日も来る日も、雨の日も風の日も鳥追舟に乗って雀を追わなければなりませんでした。あまりのつらさに思いだすのは母柳御前のこと、母も我が子二人が恋しくてたまらず、三人は人目を忍んでは母逢の渡しで川をはさんでいつもこの川岸に出て逢って共に涙を流していたという悲話の秘められた地であります。
  
現在の橋は、平成元年に架けられた近代的な橋でその名称も
『母合橋』と記され、橋の親柱には伝説を物語る母と子が対面する姿、欄干には雀を追う姉弟の姿等がデザインされ当時を忍ばせています。
(川内市教育委員会の現地説明板より)
  『日暮長者伝説』と『母合橋』 
昔、ここは『母逢いの渡し』と呼ばれ、この地にまつわる『日暮長者伝説』が残っています。室町時代の謡曲『鳥追舟』であり、江戸時代の三国名勝図会の『日暮の里』であります。
  
向田町日暮岡に日暮長左衛門という長者が住んでいました。この長者には、今の宮里町清水生まれの
柳御前という妻と、娘お北と息子花若丸の二人の姉弟がいて幸福な日々を送っていました。長者の家臣左近尉は悪巧みをして、日暮長左衛門と柳御前とを離婚させ、左近尉と親しいお熊の方と結婚させました。その後長者は土地問題で京に行き十年余の歳月が流れます。
母子の対面像(宮里町側)
 お北と花若丸の姉弟をかたどったモニュメント
 お北と花若丸の姉弟をかたどったモニュメント
    
    
とりおいのもり  
鳥追の杜
今は公園のようになっている『鳥追の杜』(写真上)と石碑(写真下左)
人目を忍んで母合の渡しで母の柳御前と対面しては慰めあっていたお北と花若丸でしたが、連日の虐待に耐えかねた姉弟は身をはかなんでついに平佐川に身を投げてしまいました。村人たちがこれをあわれみ、塚を建ててねんごろにその霊を弔ったところが『鳥追の杜』だと伝えられています。後世、哀惜した村人は観音像を安置して冥福を祈りました。姉弟の生まれ変わりだという二本のタブの木(クスノキ科の常緑高木)が生え、それがどんどん大きくなり、数が増えて森になったそうです。森は太平洋戦争のときに爆弾を落とされて焼けてしまいましたが、観音像は今も残されています。 
  
  水鳥を追ひし跡とて名もくちず
       のこるしるしのもりの一むら  松翁
  
鳥追の杜や川内駅が所在する一帯を鳥追町といい、地名にも伝説の名残が感じられます。
地名にも残る『鳥追』
『鳥追の杜』に今も残る観音像(上写真の右)
 
 いりきたきぎのう     .
 第4回入来薪能『鳥追舟』
第4回薪能『鳥追舟』のポスター
鹿児島県内には能堂もなく、能が舞われるのは極まれなことだったので、 『鳥追舟』が地元で舞われるなど想像もされなかったことでしたが、 故入来院貞子(ていこ)さん(平成23年5月2日ご逝去)が代表をされていた地域おこしグループ『花水木会』主催の第4回入来薪能(平成14年9月7日、サンアリーナせんだい)で実現したのでした。 入来薪能は、地元行政(当時は入来町)の支援も理解もないまま、 私的な負担も限界ぎりぎりのなかで、能に全く素人の地域おこしグループとその支援会の人たちの手づくりで平成11年(1999年)に始まったものです。 川内が舞台になった『鳥追舟』という曲があることを知った貞子さんは、 お知り合いの方らからの強い薦めもあって、 『鳥追舟』をやることに決めました。貞子さんのエッセイにつぎのようにあります
  

今までの曲よりワキツレと子方の二名が増えるばかりでなく、 ワキも上級な人でなければならないということで、京都の先生をお願いする。 ハタラキというお手伝いも一人増えて費用は相当かかるのだが、後々にも川内市 (現薩摩川内市)の記録に残ることを考えれば、ここは頑張るしか仕方ない。

  
入来薪能の主催者代表だった入来院貞子さんがお亡くなりになった今、まさしく後々に残る貴重な記録になりました。
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