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旅行記 ・垂水人形を訪ねて − 鹿児島県垂水市  2011.12.15
たるみずにんぎょう
垂水人形
2012年の干支『辰』の置物。辰には、悪運を絶つ、立身出世するの立つに通じる意味合いがあるといわれます。
  鹿児島県内には、垂水市(垂水人形)、姶良市(帖佐人形)、薩摩川内市東郷町(東郷人形)および薩摩郡さつま町(宮之城人形)の四個所で、土人形の制作が伝承されています。錦江湾を挟んで鹿児島市の対岸に位置する垂水市錦江町では、垂水人形研究会の中島信夫会長(85)宅で、江戸時代から伝わる垂水人形の来年(2012年)の干支『辰』(たつ)の置物づくりが行われているというので訪ねました。中島さんは8月に制作を開始し、60個ほどを制作する予定だそうです。粘土を型枠に入れて10日ほど乾燥させ、電気炉で素焼きした後、手塗りで絵付けをします。
一個絵付けするのに丸一日かかるそうですが、『辰には、悪運を絶つ、立身出世するの立つに通じる意味合いもある、来年も良い年でありますように』と、一つ一つ手作業で制作を進めていきます。道の駅たるみずや垂水ベイサイドホテルアザレアで販売するほか、電話注文も受け付けているそうです(価格は一個2,600円)。
 
素朴ながら、明るい色で美しく朗(ほが)らかな雰囲気をかもし出す垂水人形
垂水人形 垂水人形は、明るい色で美しく朗らかな雰囲気をかもし出す素朴な手づくりの土人形で、江戸時代から作られ、明治・大正・昭和と続き、記録によると最盛期には20軒ぐらいの窯元(窯で素焼きをするのでそう呼ばれた)があったそうです。種類は節句人形のほか、縁起物、動物など多くの種類があり、昔から三月の女の節句、五月の男の節句に飾られ、厄事災難を除き、出世開運を願い子どもの健全な成長と幸運を祈念する意味で広く庶民の間で愛用されていました。戦後途絶えていたものを、垂水人形研究会が結成され、平成元年(1988年)に復活しました。
 
種類は節句人形のほか、縁起物、動物など多くの種類があります。
垂水島津家と垂水人形 鹿児島市磯にある島津家別邸跡・仙巌園では、毎年ひなまつりの時季になると、1729年(享保14年)に、5代将軍徳川綱吉の養女竹姫が島津家22代継豊(島津吉貴の長男)に嫁いだ際に持参した99種407点のひな道具が展示されます。垂水島津家は、一門家(加治木、重富、垂水、今和泉)の一つで、吉貴の三男・貴儔(たかとも)が垂水島津家の第9代に、六男の貴澄(たかすみ)が第10代になっています。『貴儔も貴澄も竹姫のひな道具に馴染んでいたでしょうから、お庭焼として作られるようになった垂水人形にも影響を与えたに違いありません』と、垂水文化財保護審議会長、垂水史談会会長もされている中島信夫さんは語ります。また、垂水島津家第2代の島津以久(ゆきひさ)は、日向佐土原3万石に移封になり初代藩主になっていますから、垂水人形は佐土原人形とも縁があったわけです。
 
篤姫より先に家定の嫁候補にあがっていたという八百姫をかたどった八百姫人形(左より2つ目)
八百姫(やおひめ)人形 篤姫(あつひめ)が13代将軍徳川家定に嫁いだのは、2008年のNHK大河ドラマにドラマ化された通りですが、実は、篤姫よりも先に家定の嫁候補に上がっていた人がいました。青森の八戸藩第8代藩主・南部信順(なんぶのぶゆき=薩摩藩主・島津重豪の十四男で、八戸藩へ婿養子入り)の娘『八百姫』(やおひめ)です。ところが、八百姫は、さっさと垂水島津家14代島津貴敦(たかあつ)に嫁いでしまいます。それを残念がった島津斉彬は、今和泉島津家の篤姫に白羽の矢を立てたのでした。八百姫人形(写真上)は、地元で人気の八百姫をかたどって作られている人形です。
 
2012年の干支の『辰』の置物に手作業で絵付け中の中島信夫さん
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