〔高鍋城〕高鍋城(たかなべじょう)は宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋町にあった平山城。別名を舞鶴城。旧名を財部(たからべ)城といいました。現在、城跡は舞鶴公園として整備されています。高鍋城は平安時代末期に宇佐八幡宮の神官の出で、日向の豪族となった土持氏によって築かれたといわれます。 |
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舞鶴公園入口 |
土持氏は室町時代までおよそ 600年間その勢力を誇りましたが、戦国時代になって日向に勢力を伸ばしてきた伊東氏の所領となりました。それからおよそ
120年後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となりますが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐以後、筑前秋月城主(現在の福岡県朝倉市秋月)であった秋月種実(たねざね)が移封され、城も秋月氏のものとなります。 |
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秋月氏は当初、櫛間城(くしまじょう、宮崎県串間市)を居城としていましたが、慶長9年(1604年)に秋月種実の長男・秋月種長(たねなが)により財部城に居城を移し高鍋藩が成立し、高鍋藩の藩庁として幕末に至ります。〔高鍋藩〕高鍋藩は、現在の宮崎県児湯郡の東部(高鍋町、川南町、木城町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市(瓜生野・倉岡の一部)、国富町(木脇)を領有していて、当初石高3万石でしたが、4代種政が弟の種封に3千石を分与したため、以後の表高は3万7千石となりました。 |
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江戸時代中期、6代種美(たねみつ)の次男は米沢藩(上杉氏)に養子入りして、名君として有名な上杉鷹山(治憲)となりましたが、その兄に当たる第7代藩主・秋月種茂(たねしげ)も、高鍋藩の歴代藩主の中の名君として治績を上げました。種茂は1778年(安永7年)に藩校・明倫堂を設立。高鍋藩は、藩士教育に熱心だったことから『教育の藩』としても知られました。 |
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御殿井戸 |
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〔御殿井戸〕1891年(明治24年)、種公の住居として萬歳亭(ばんざいてい)亭が建てられましたが、そのとき同時にこの井戸も掘られたものであろうと思われています。その後、種英公や藩主の一族が昭和の初めまで住まわれ、この井戸が使用されました。 |
刀工鍛冶場 |
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〔刀工鍛冶場〕この刀工鍛冶場(とうこうかじば)は、大字北高鍋字南道具小路、岩下英(盛夷)氏の鍛冶場を復元したもので、34.92平方メートルで、主要部分には、フイゴ・火防壁・金敷(床)・道具棚があり、東側の廂(ひさし)の部分は刀の仕上げ場でした。秋月家のおかかえ刀工師は三家あり、いずれも岩下姓で筑前(福岡県)より初代種長公が召寄せられたといわれています。 |
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領国境標柱 |
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2つの領国境標柱 |
〔領国境標柱〕上の写真の2本の石柱は高鍋藩領の境界に立てられていたもので、右側の標柱には『これより東南高鍋領』とあり延岡藩との境であった日向市幸脇に、左側の標柱には『これより北東高鍋領』とあり、佐土原藩との境であった新富町鬼付女(きづくめ)に建てられていました。このような標柱は県内でも7つしか発見されておらず、しかも3面に文字が刻まれているのは、他県にも例の少ない貴重な資料であるといわれています。 |
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〔萬歳亭はなれ〕萬歳亭(まんざいてい)は、秋月家第11代当主・種樹公(あきづき たねたつ、1833〜1904年)の住家を復元したもので、舞鶴公園の敷地内にあります。昭和17年(1942年)には本家を新築、別棟をそのまま残し屋根を瓦葺にして種英公(種樹公の次男)が書斎として愛用したそうです。中庭には水琴窟(すいきんくつ)があり琴の音色に似た澄んだ響きを楽しむことができます。 |
〔水琴窟〕水琴窟は、竹の樋から出てくる水が丸い石の上に落ちます。 この下の地面に空洞が作ってあって、そこに垂れる水音が響きます。 琴の音のように聞こえるので、水琴窟(すいきんくつ)と呼ばれます。 |
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舞鶴神社 |
〔舞鶴神社〕昔の政治は祭政一致でした。政治は神仏を祭ることからはじまり、神仏のご加護によって国家の安泰を計り、政治の万全を期するということでした。秋月氏も、舞鶴城内の各所に八幡宮、天満宮、白山神社、財部大明神、龍宮の神々を奉斉して、藩の隆昌を祈念せられ、五神殿様として厚く尊崇していました。 1871年(明治4年)の廃藩置県に際し現在の地に社を建て五社を合祀して旧城名に因み舞鶴神社と称するようになりました。 |
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舞鶴神社 |
〔舞鶴城灯籠まつり〕舞鶴城灯籠まつりは、高鍋藩の全盛期を築かれた第7代藩主・秋月種茂公を偲び、種茂公の創設された藩校『明倫堂』の教えに明かりを灯すことを目的に始めました。種茂公は、18歳の若さで『間引き』を止めさせるため、農家の子供3人目からは1日米2合または麦3合を支給するという児童手当を世界に先駆けて行われると共に、産業の振興にも力を注がれ、江戸時代の名君のひとりと数えられています。ものです。 |
また、種茂公が人材育成のため創設された藩校「明倫堂」では、「各人が自分の行動規範を確立すること」という心の教育が行われました。家庭内暴力や幼児虐待が頻繁に行われている今日、今一度「明倫堂」の教えを思い起こし、『心の教育』を町内外に広くアピールしようというものです。舞鶴城灯籠まつりでは、秋月家は中国漢の皇帝の末裔(まつえい)であることから石灯籠を中国より輸入し、舞鶴灯籠として舞鶴公園に設置したものです。〜以上、現地説明板(写真上)より。 |
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高鍋図書館の敷地内に、『明倫堂書庫』『秋月毅堂書庫』の2棟が仲良く建っています。〔明倫堂書庫〕旧高鍋藩の学校・明倫堂を書庫を正幸会が買取り昭和29年(1954年)当所に移転復原して町に寄附したもので、明倫堂の図書1万6000冊を収納している。〔秋月毅堂書庫〕高鍋町筏出身、元オーストリア大使秋月左都(号は毅堂)を書庫を正幸会が買取り昭和29年(1954年)当所に移転復原して町に寄附したもので、同家及び諸家の図書を収納している。
〜 現地説明板より |
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「明倫堂書庫」と「秋月毅堂書庫」の説明板が見えます |
高鍋藩秋月家墓所の大龍寺跡/明治初年の廃仏毀釈で廃寺に |
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