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旅行記 ・閑谷学校を訪ねて − 岡山県備前市  2010.08
しずたにがっこう     .
閑谷学校(国宝)
閑谷学校全景(写真上)
閑谷学校は、今から約340年前の江戸時代初期、武士による厳しい民衆支配が行われていた時代に、岡山藩主の池田光政公が創立した日本最古の庶民のための学校で、聖廟、講堂、小斎、習芸斎、文庫、門、閑谷神社、石塀、石門など、主要設備が非常によく保存されていて、講堂が国宝に指定されているほか、25件が重要文化財に指定されています。
講堂などのある学校地(写真上)
校地の西隣は木が植えられていない盛土になっています。この人工的に造られた盛土部分は火除山(ひよけやま)と呼ばれ、その西側にあった学房群の建物が当時は茅葺きで火災の心配があったため、校地への延焼を防ぐの防火区画として造られたものです。
校門(鶴鳴門)と公門(御成門)。手前が公門
校地の南側を重厚に走る石塀(せきへい)には校門と公門の2つの門があります。公門は藩主の通用門で『御成門』とも言いました。元禄14年(1701年)の建造で、構造形式は薬医門となっています。
校門(鶴鳴門)
閑谷学校の正門である校門、門扉を開閉する時鶴が鳴く声に似た音がすることから『鶴鳴門』とも呼ばれているそうです。棟に鯱(しゃち)をのせているのは閑谷学校の建物ではこの門だけだそうです。また、左右に釣鐘窓が見えます。正面奥に孔子をまつる聖廟が見えます。
講堂(東面を見る)
国宝の講堂は、元禄14年(1701年)の完成で、内部は10本の円柱に囲まれた母屋とその四囲の庇(ひさし)の間からなり、外側を広縁でとりまいています。材料の吟味と施工が入念になされているので現在に至るも一分の狂いもみられないそうです。備前焼の赤瓦が建物の重厚堅固な趣を助長しています。
講堂(南東から見る)
講堂の花頭窓(火灯窓)からの明かりを反射している床も、10本の丸柱も、江戸時代から今日にいたるまで、ここに座った生徒たちによって拭き込まれたものです。講堂では、一と六の付く日に教授による四書五経などの講釈が行われました。
聖廟
聖廟(せいびょう)は儒学を始めた孔子を祀っており孔子廟、あるいは閑谷神社に対して西御堂ともいわれています。本殿にあたる大成殿は貞享元年(1684年)に完成した建物です。内部の厨子(ずし)の中には、元禄時代に鋳造された孔子像が安置されています。聖廟の前には、中国の孔子林の種を育てた一対の楷(かい)の木が植わっており、秋には素晴らしい紅葉を見せます。
閑谷神社
閑谷神社は西側に並ぶ聖廟に対して東御堂とも呼ばれます。第3代藩主池田光政とその祖父輝政および父利隆が祀られていますが、閑谷学校創設者である光政公を祀るために貞享3年(1686年)に建てられたもの。
石塀
閑谷学校を訪れてまず目に付くのが、校地を南側と東西から囲んでいる石組みの石塀(せきへい)です。形の異なった石を巧に組み合わせる『切り込みはぎ式』と呼ばれる精巧な石築きで、ノミでかまぼこ型に仕上げてあります。石塀は備前焼の赤瓦とともに閑谷学校の独特の景観を演出しています。
石塀越しにみる校門と講堂
石塀は元禄14年(1701年)の建造で、幅約1.9m、高さ約2m、総延長 846m。石塀は隙間なく組み立てられているので、310年近く経た現在でも草一本生えることがなく、豪壮で端然たる姿を伝えています。 
資料館へ続く石塀
火除山から西のあたりは江戸時代の学房の跡で、明治以降は、閑谷精舎、閑谷黌谷中学校・高等学校、青少年教育センター閑谷学校などとして、教育の伝統が守られてきました。現在残されている建物は、明治38年(1905年)私立中学閑谷黌の校舎として建築されたもので、青少年教育センター閑谷学校の新築にともなって平成5年(1993年)から閑谷学校資料館となりました。
閑谷学校資料館
【参考にしたサイト】
(1)日本最古の庶民学校 閑谷学校 -岡山県備前市-
(2)国宝閑谷学校

 そのほか、現地のもらったパンフレットや現地の説明板を参考にしました。
 レポート ・閑谷学校
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