旅行記 ・田川の風治八幡宮川渡り神幸祭 − 福岡県田川市 2010.05.15
|
風治八幡宮の神輿から川に入ります。 |
北九州市の小倉駅からJR九州・日田彦山線を走る二両連結のディーゼルカーに乗ると約50分で田川伊田駅につきます。この沿線は、かって日本有数の産炭地として賑わいを見せ、近代日本の経済発展の原動力となった地域です。 |
川に先に入って安全を確認した顧問、会長さんたちが見守ります。 |
途中にある採銅所駅と香春(かわら)駅間の車窓から、五木寛之の小説『青春の門』で有名になった香春岳が望めます。石炭産業の衰退の後は、石灰石を主原料とするセメント産業へと転換が図られ、車窓から今はセメント工場の景観が目に入ってきます。 |
神輿は約2トンの重さで、60人の担ぎ手が必要です。 |
飯塚、直方と並んで筑豊を代表する町である田川は、筑豊最大の炭都として栄えてきた町で、炭坑節の発祥の地として知られています。田川市石炭・歴史博物館では、かつて日本のエネルギーを支えた筑豊炭田の歴史と炭坑で栄えた頃の様子を知ることができます。 |
水しぶきも勇壮です。 |
その田川に夏の訪れを告げるのが『風治八幡宮』(ふうじはちまんぐう)の『川渡り神幸祭』(かわわたりじんこうさい)です。450年近い歴史と伝統を誇る祭礼で、1970年(昭和45年)に福岡県無形民俗文化財第1号に指定されました。毎年5月第3土曜・日曜日に行われています。 |
『みこしをかつぐ会』のメンバー。いかにも頼もしいです。 |
今から450年前の永禄年間(1558〜1569年)といえば、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った頃のことになります。この永禄年間に伊田村で疫病が流行し、悪疫退散を風治八幡神宮に祈願し、その御願成就の御礼として、この神幸祭を行ったのが川渡り神幸祭の起源といわれます。 |
|
11基の山笠(ヤマ)が川に入る順番を待ちます。 |
毎年五月の第三土曜日に、市内を流れる彦山川の対岸にあるこ『お旅所』(風治八幡宮)へ山笠(やま)を引きつれて御神輿(みこし)で一泊二日の旅に出られ、翌日の日曜日の夕刻還幸されるというのが川渡り神幸祭のストーリーです。行きと帰りの二回、彦山川を渡るときに絢爛(けんらん)豪華な一大神事が催されます。 |
初日の13:00、風治八幡宮で神幸祭祭典が行われたあと、御神体が移された神輿(みこし)が風治八幡宮を出発します。
15:00頃、河川敷で地区の子供たちによる安全祈願の『獅子舞奉納』が行われ、15:30になると、風治八幡神宮の神輿、白鳥(しらとり)神社の神輿、各町内の11基の山笠(ヤマ)の順に川に入ります。 |
|
通常、山笠と書いて『やまがさ』とよび、『山車(だし)』ともいわれますが、地元田川では山車と呼ぶのは稀であり、山笠も『ヤマ』と呼びます。山笠の豪華絢爛な馬簾(ばれん)の五色は、五穀豊穣を願うからだといわれます。御輿と山笠が川に入る点が、他の一般的な神幸祭とは異なり、川渡り神幸祭の特徴になっています。 |
|
川に入った山笠(ヤマ)は、16:30まで囃子たて、ガブリながら水の中を練り歩きます。 |
風治八幡宮の神輿は、1920年(大正9年)の神幸祭に新調されたもので、以来90年が経過しています。西日本では最大級のもので、総重量が2トンもあり約60名もの担ぎ手が必要だそうです。平成20年(2008年)〜21年にかけて、大改修が行われました。 |
段々と出揃ってきます。 |
炭坑閉山後、この祭りも衰退の一途をたどることとなり、昭和40年(1965年)後半には、担ぎ手が集まらずに神輿を台車で引いていました。また、山笠もわずか2、3台という寂しい状態で、祭りはまさに風前の灯火の状態となっていたそうです。 |
16:30、祭りはいよいよクライマックス。『川渡り競演会』が始まります。 |
そんな中、みこしを担ぎ上げ、祭りを復興して田川活性化のための起爆剤にするんだという合言葉によって、田川青年会議所を中心に『みこしをかつぐ会』が発足しました。 |
川に入った山笠(ヤマ)は、囃子たて、ガブリと呼ばれる山笠を前後に倒す行為をしながら水の中を練り歩きます。山笠にはお囃子など数人が乗りこんでいるので危険な動作でもあります。 |
山笠(ヤマ)に沿って並んで息をあわせて上下に揺すります。音頭取りの人がいます。 |
法被姿や裸姿の約1,000人の川筋男たちが金襴煌びやかな2基の神輿と、豪華絢爛な5色の馬簾(ばれん)で飾った11基の山笠を担ぎ、豪快な水しぶきを上げながら練り歩く様に観衆は魅了されます。 |
Martin Tulinius(マーティン ガブリの競演はクライマックス!トゥリニウス)/デンマーク |
16:30頃になって11基の山笠がすべて川の中に入り終わると、神輿と山笠が整列します。各山笠は囃子を止め、川の上流から下流の方へ一直線に並びます。会場は静寂に包まれると、いよいよ祭りはクライマックスを迎え、『川渡り競演会』が始まります。 |
揃いの法被並びが綺麗です。 |
会場が静寂に包まれるなかで、神輿指揮者のカウントダウンの合図によって、2基の神輿が同時に立ち上がると、各山笠は前を上げたまま止め、囃子がダブリ(連打)を行い、神輿2基が川の上流下流に分かれて進んだのち、今度は各山笠がガブリをひとしきり行って、『流れ終了』となります。了」となります |
大通りの山笠(ヤマ)にはドライアイスの白煙が噴出す仕掛けがしてあります。 |
競演会終了後、神輿は彦山川下流に向かい対岸に上陸し、お旅所へ向かいます。神輿に続いて、1番山笠以降が上陸します。1番山笠は、神輿2基がお旅所に入るまで、お旅所の手前で待ちます。 |
いつもは静かな彦山川の水面がこんな賑わいです。 |
17:00頃、2基の神輿がお旅所に入った後、1〜11番山笠の順でお旅所に入ります。そして、お旅所で練った後は、所定の位置に山笠を納めて提灯などを飾りつけます。17:30になると、神輿の無事のお旅所到着を祝って、
『頓宮着輿祭』、『獅子舞奉納』が行われます。 「獅子舞奉納」 みこしの無事到着を祝い奉納され |
|
こちらの川筋男たちは裸姿。 |
【風治八幡宮由来】(1)風治八幡宮は古く伊田大神と称して海津見神を祀りし地主神にてありしが、神宮皇后御征韓の砌り、筑紫より穴門(山口県下関)の豊浦に還御の折、俄かに暴風雨起こりし為、社前の大石に腰を掛け給いて、親しく御佩しの太刀を献上して天神地祇及伊田大神に祈願せしに暴風雨忽ちに治まりつつがなく穴門に至り給う。 降って弘仁五年六月大旱魃により五穀、悉く枯れんとせしに郡司、伝教大師をして伊田大神に祈念せしめ潤雨ありて五穀豊穰す。 |
|
気合が入ります! |
元和元年国主細川公、手永制度を定め(上赤、下赤、山浦、大内田、小内田、上今任、下今任、桑原、秋永、安永、伊加利、上伊田、中伊田、下伊田十四ケ村を伊田手永と称す)当社を伊田手永大社と定め崇敬厚く、降って元禄元年国主小笠原公聖后御凱旋の神徳にちなみて風治の二字を贈りて風治八幡宮と改称し今日に至る、五穀豊穰、殖産工業、除厄開運、交通安全守護神として崇敬篤く参詣者のたゆる事なし。【御祭神】 ・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・海津見神・玉依姫命。 |
|