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旅行記 ・井田跡(せいでんあと) − 岡山県備前市  2010.08
せいでんあと
井田跡
上井田跡に建立された井田碑(右奥)と井田の模型(左手前)
井田跡(せいでんあと)は、中国周時代(紀元前1,100年頃)の井田制を模して寛文10年(1670年)岡山藩主池田光政が津田永忠に命じてこの地に造らせた地割遺構で、上井田(かみいた)と下井田(しもいた)からなります。
井田碑(向こう側)と井田の模型(手前)

上井田は面積9町7畝(約900アール)、下井田は9町3反18歩(約930アール)を、一区画一町歩(約100アール)を単位にして、一の町(いちのまち)から九の町に9等分し、井田制を実施しました。

井田碑(明治10年建立)
井田制について
井田制(せいでんせい)とは、中国の古代王朝である周(紀元前1,100年頃)で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。
     
まず、1里四方、900畝の田を「井」の字の形に9等分する。そうしてできる9区画のうち、中心の1区画を公田といい、公田の周りにできる8区画を私田という。私田はそれぞれ8家族に与えられる。公田は共有地として8家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。以上のような内容が孟子によって語られているが、ほとんど伝説上の制度といってよく、その実態は依然として不明である。
   
なお、畝(ほ)というのは中国で用いられた土地面積の単位で、10歩平方の土地、すなわち100方歩を意味する。1歩は6尺であるから、1畝は600尺四方とも言うことができる。尺の長さは時代によって変わるため畝の表す広さも一定ではないが、周代の頃の1畝をメートル法に換算すると、およそ1.82aであると考えられている。よって井田制における一区画は100畝(182a)の面積を有することになる。儒教を旨とし、周(特に周公旦)の政治を理想とする政治家や儒家によってしばしば参考にされている。 また、日本の奈良時代に行われた条里制もこれを参考にしたものといわれている。(以上、ウィキペディアより転載)。
上井田と下井田の井田図(写真左) 
井田の模型
井田制とは、一の町(いちのまち)から八の町までは8軒の私田とし、九の町を公田(こうでん)として8軒で共同耕作し、この収穫を租税として納めるもので、税率約一割の理想的租税制度といわれています。このような遺構は国内はもとより、中国にも現存の例がないという貴重なものです。
井田の模型
のち池田公は岡山後楽園の中に、この井田の模型をつくり農作業をさせその苦労を感知したといわれます。明治になり『井田』の名が廃(すた)れることを惜しんだ住民が、明治10年(1877年)、上井田の公田『蘆舎(ろしゃ)』あとに、山田方谷の撰文、鎌田玄渓の書、西薇山の題字による『井田碑』を建立しました。
井田の模型越しに見る井田跡
平成2年には、井田開田三百年記念事業として『井田碑』の隣に『井田の模型』を造って、後世に先人の偉業を伝えることとしました。尚、模型の縁石は、井田樋門の石材が使用されています。〜 以上、備前市教育委員会の現地案内板より。
【補遺】
池田光政が津田永忠に命じて上井田の井田が着工されたのが1670年。翌年の1671年に完成し、実際に年貢も税率約一割という中国式が実施されましたが、光政のあとを継いだ綱政は、逼迫する藩の財政事情から、1675年井田の租税率を他の農地と同じに変更しました。1688年には下井田が完成しましたが、海抜0メートルのため、収穫に数年を要したといわれます。1710年に、下井田は閑谷(しずたに)学校田となり、同時に、学校林も設定され、140ha、預け山72haが学校運営に使われることになりました[1][2]。
【参考にしたサイト】
[1]井田跡 -岡山県備前市-
[2]備前市せいでん(井田)跡
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