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旅行記 ・近江八幡 − 滋賀県近江八幡市  2010.12
近江八幡
(重要伝統的建造物群保存地区)
江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が整然と残る新町通り
新町通りの産地SHOP『麻香』(あさがお)
ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られています。2005年には水郷地域 160ヘクタールが景観法に基づく『景観計画区域』に指定されました。これは、同法の適用第1号であり、さらに2006年には『近江八幡の水郷』として重要文化的景観の第1号に選定されています(1)
  近江八幡市
近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展しました。いわゆる近江商人の発祥の地です。近世の風情がよく残る『新町通り』・『永原町通り』・『八幡堀周辺』・『日牟禮八幡宮境内地』は、『八幡伝統的建造物群保存地区』として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われています。
旧西川庄六宅の土蔵
 新町通りの西側。森五郎兵衛宅(手前)と旧西川庄六宅、
旧西川利右衛門宅(国の重要文化財)
今なお、碁盤目状の町並みは旧市街によく残され、特に新町や永原町には近江商人の本宅であった家々が建ち並び、八幡堀に面した土蔵群等、往時の在郷町としての繁栄を伺い知ることが出来る。現在、伝統的建造物群保存地区の指定を受けたこの町並みは、未来の都市空間の中に継承すべき貴重な文化遺産であり、近江八幡の心のよりどころである(現地案内板より)。
  近江商人のふるさと
天正13年(1585年)豊臣秀次が八幡山頂に築城、本能寺の変で主なき城下町となった安土の町を移し、翌年、八幡山町掟書を公布、縦12通り、横4筋の区画整然とした城下町が誕生。しかし開町から10年、廃城となるが、その後は商業都市として栄え、北は北海道、南は九州、遠くは東南アジアまで活躍した近江商人の一つのふるさとでもある。
郷土料理喜兵衛(新町浜)
八幡堀の風景
八幡堀沿いのカフェ『蔵』
橋のたもとに残る常夜灯(宝暦12年の刻銘)
文禄4年(1595年)、秀次の自害を受けて八幡城は廃城となったが、城下町は存続し、近江商人により繁栄を極めた。近江商人は八幡堀の地の利を活かし、地場産物(畳表、蚊帳、米、酒など)を陸路や水路を利用して各地へ搬出し、各地の産物を持ち帰り、再び各地へ送り出すといった『諸国産物回し』と呼ばれる商法によって、各地の産業振興に貢献した。『三方よし(買い手よし、売り手よし、世間よし)』という近江商人の商売哲学は、他国での商売を通じて生れた概念です(2)
   八幡掘(はちまんぼり)
八幡堀は、近江八幡市にて、近世初期より今日まで運用されている運河。幅員約15メートル、全長6キロメートルに及びます。安土桃山時代に豊臣秀次が八幡城を築城した際、城下町の都市計画として整備され、城を防御する軍事的な役割と琵琶湖の水運(当時の物流の要)を利用する商業的役割を兼ね備えました。江戸時代には、近江商人(八幡商人)による町の発展に大きな役割を果たしました。堀沿いには往時の面影を残す白壁の土蔵や旧家が建ち並んでいます。
八幡堀沿いの細い路地(右は西川文化財団)
白壁が立ち並ぶ八幡堀
まさしく時代劇に出てきそうな風景です。
時代劇の格好の撮影の場所となっており、年間に30回程度のロケが行われているそうです。
白壁と瓦屋根が美しい『かわらミュージアム』
持下り商いは、一回きりの売込みではなく、自分が見込んだ国や地域へ毎年出かけ、地縁や血縁もないところに得意先を開拓し、地盤を広げていかなければならないでした。近江国外での他国行商を本務とした近江商人は、行商先の人々の間に信用という目に見えない財産を築いていかなければならなかったのです。その他国商いのための心構えを説いた近江商人の教えが、集約して表現されるようになったのが『三方よし』という言葉です(3)
  三方よし
『三方よし』(さんぽうよし)は、近江商人の家訓として知られる経営理念で、売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでなければならないとう意味の、『売り手よし、買い手よし、世間よし』という概念です。江戸時代から明治期にわたって次々に出現した近江商人たちは、近江に本宅を構え、上方の商品と地方物産の有無を通じる(一方にあって他方にないものを互いに融通し 合ってうまくいくようにする)『持下』(もちくだ)り商いに従事していました。
地場産業である八幡瓦のミュージアムです。
 初冬の夕暮れが真近い風景
大鳥居と白雲館
日牟禮八幡宮の大鳥居越しに見る白雲館
明治10年(1877)に八幡東学校として建築された白雲閣は、八幡商人や地域住民の人々の熱意と協力で当時6千円(米1俵が1円34銭)の費用をかけて建設されました。明治10年の児童数は男115人、女117人、計232人と記されています。学校として使用された後は、役場、郡役所、信用金庫、等を経て、平成6年に建設当時の姿に復元されました。
 
日牟禮八幡宮の境内地にある和菓子の老舗『たねや』
日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)は、古くから近江商人の信仰を集め、二大火祭の『左義長まつり』と『八幡まつり』は国の選択無形民俗文化財に指定されており、境内地は八幡伝統的建造物群保存地区の構成要素となっています。
【参考サイト】
(1) ウィキペディア−近江八幡市
(2) ウィキペディア−八幡堀
(3) 「三方よし」 三方よしの理念 - 三方よしの理念
 
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