橋のたもとに残る常夜灯(宝暦12年の刻銘) |
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文禄4年(1595年)、秀次の自害を受けて八幡城は廃城となったが、城下町は存続し、近江商人により繁栄を極めた。近江商人は八幡堀の地の利を活かし、地場産物(畳表、蚊帳、米、酒など)を陸路や水路を利用して各地へ搬出し、各地の産物を持ち帰り、再び各地へ送り出すといった『諸国産物回し』と呼ばれる商法によって、各地の産業振興に貢献した。『三方よし(買い手よし、売り手よし、世間よし)』という近江商人の商売哲学は、他国での商売を通じて生れた概念です(2)。 |
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八幡掘(はちまんぼり) |
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八幡堀は、近江八幡市にて、近世初期より今日まで運用されている運河。幅員約15メートル、全長6キロメートルに及びます。安土桃山時代に豊臣秀次が八幡城を築城した際、城下町の都市計画として整備され、城を防御する軍事的な役割と琵琶湖の水運(当時の物流の要)を利用する商業的役割を兼ね備えました。江戸時代には、近江商人(八幡商人)による町の発展に大きな役割を果たしました。堀沿いには往時の面影を残す白壁の土蔵や旧家が建ち並んでいます。 |
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八幡堀沿いの細い路地(右は西川文化財団) |
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