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旅行記 ・大谷寺(大谷観音) − 栃木県宇都宮市大谷 2011.02
大谷寺(大谷観音)
 朱色の大谷観音山門。後ろの風化した大谷石の岩山が独特の風景を形つくっています。
 後ろにそびえる大谷石の壁面に、本尊の千手観音像(大谷観音)が彫られています。
観音堂の屋根には赤鬼が
大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)
堂内の岩壁面に彫られた厚肉彫りの美しい磨崖仏は、千手観音像、伝釈迦三尊像、伝薬師三尊像、伝阿弥陀三尊像の4組10体の石心塑像が4区に分かれて彫出されています(禁止されているため撮影できなかったのが残念でした)。観音堂はむしろ磨崖仏を保護するための建物だといわれています。
  
これら磨崖仏のうち千手観音は、平安時代初期の弘仁元年(810年)弘法大師の作と伝えられています。大谷磨崖仏は大分県臼杵市の臼杵磨崖仏と並んで学術的に非常に価値の高い石仏とされ、1926年に国の特別史跡に、1961年には国の重要文化財に指定され、日本最初の二重指定を受けたものです。
  大谷寺(大谷観音) 
大谷寺(おおやじ)は、栃木県宇都宮市にある天台宗の寺院。山号は天開山。院号は千手院。坂東三十三箇所第19番札所。大谷石凝灰岩層の洞穴内に堂宇を配する日本屈指の洞窟寺院であり、本尊は、凝灰岩の岩壁に彫られた高さ4メートルの千手観音(大谷観音)で、一般には『大谷観音』の名で知られています。
  
江戸時代初期には、徳川家康の長女・亀姫が時の住職・伝海僧正による中興を援助し現在の大谷寺の基盤を作りました。伝海僧正は徳川氏の菩提所・上野寛永寺の開山であるため、以来大谷寺は寛永寺に属し、徳川家の保護の下に繁栄しました。

され、日本最初の二重指定を受けたものです。

観音堂のご紋は徳川氏の葵のご紋
 境内の大谷石壁面にはたくさんの石仏が彫られ、また置かれています。
赤いお堂の弁天堂には弁財天が祭られています。
弁天堂と白いへび
赤いお堂は弁天堂で、中に弁財天が祭られています。弁財天は七福神の紅一点で、開運・財運の神様です。その前の白ヘビには伝説が残されています。昔、この池に毒蛇が住んでおり、毒をまき人々を困らせていました。時に大同、弘仁の頃、弘法大師がこの話を聞き、秘法をもって退治したといいます。その後、毒蛇は心を入れ替えて白ヘビとなり、弁財天にお仕えしています。参拝後に、白ヘビの頭を軽くさすると、ご利益があるといわれています(説明板より)。
  大谷岩陰遺跡
当寺周辺には縄文時代の人の生活の痕跡が認められ(大谷岩陰遺跡)、大谷寺の洞穴内の深さ3mの地層から、屈葬されたほぼ完全な形の縄文人の人骨(身長154cmの痩せ型)が出土したことから、大谷寺の洞窟は元々縄文人の横穴式住居であったものと考えられています。この人骨は20代前後の男性で、放射性炭素法とフッ素法の二種類で年代を測定した結果、縄文時代草創期(約1万1千年前)と判定されています。その人骨は、宝物館に展示してあり見物できます。
朱色の前掛けが鮮やかな石仏
宝物館の後ろにある弁財天の池はシャーベット状に氷っていました。白蛇の像が見えます。
   
        − 編集後記 −
  
2011年2月17日鹿児島空港発のミステリーツアーで初めて訪ねたのが大谷観音でした。付近一帯で採掘される大谷石は柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきたそうです。バスの車窓から独特の奇岩や立派な石造りの家を見ることができました。左の写真はバスの車窓から撮った(株)屏風岩石材の建物。明治40年築だとか。大谷観音は、堂内の岩壁面に彫られたあの美しい磨崖仏が、三週間後の3月11日に起きた未曾有の東北地方太平洋地震でダメージを受けていなければ良いと思います。(2011年4月25日記)
 
【参考資料およびサイト】
このページの説明文は、大谷観音で頂いたしおりや現地案内板、およびウィキペディアの『大谷寺 (宇都宮市)』『大谷磨崖仏』を参考にして書きました。ディア
 
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